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短編小説 幻谷(まぼろしだに)③

国立大学受験日の前日、インフルエンザに罹った。

母に連れられて車で病院に行き診察室に入ると、眼鏡をかけた小太りの医師がいた。体の震えが止まらない俺に変わりに母が事情を話すと、「あ~」と気の毒そうな顔をした。その後の、定型文のような処方箋の説明と、「まぁ、受験がすべてじゃないから」という無責任な言葉に俺はかなりイラついた。

だが、現実は絶望的だった。
気休めにしかならない薬を貰って帰った翌日、朝から体温を測ると40度近くの高熱が表示されて、走馬灯のように諦めてきた物事が駆け巡る。

春休みの家族旅行、友達が誘ってくれた夏の海、息抜きにと親戚のおじちゃんがくれた映画のチケット。その一つ一つを握りつぶして机へと向かっていた。

「俺の1年間、何だったんだ」

虚しさと悔しさで涙が止まらなくなって、拭いきれない涙が目じりを伝って枕に落ちた。

瞼の裏にセンター試験での光景が流れる。目の前に置かれた問題用紙。大学職員が淡々とした声で行う試験説明。それが終わったときの、沈黙の中に流れる衣ずれと鼻をすする音。

そして「はじめ」の合図で問題用紙が翻り、静けさを切り裂いたマシンガンのように瞬く間に広まった何百という鉛筆が机を打つ音。まさに受験戦争だった。

いや違う、まだ戦争は終わってない。本当の闘いは今日なんだ。

そう思いはじめると体の芯から力が入り始め、なぜか行けそうな気がしてきた。寝返りを打ってスマホを手に取ると朝の8時過ぎたところ。

「10時開始だから、まだ間に合うぞ」

こうして俺は、一世一代の無理をして受験会場に行く決意をした。今思えば無謀にもほどがあったと思う。

三半規管がおかしくなったように足元はふらつき、背中と関節の節々には虫が入ったようにぞごぞごと気持ちの悪い寒気が走っていた。とても問題が解ける状況ではないとわかってはいたが、それでも受けないよりはマシだとその時は本気で思っていた。

2キロの校内マラソンを走った後のように重たい体を、気力で動かしながら学生服に着替えて、その上にダウンベスト、更にその上に茶色いロングコートを着て、本棚の前に置いていた20個のホッカイロパックから4個を抜き取り、うち袋から取り出してポケットに入れた。

完全防寒の装いでリュックを背負って、2階にある自分の部屋から階段を恐る恐る降りていく。降りた先は玄関になっているが、その左側には台所と広間の扉がある。よもや受験に行くとは思っていなかった母は、朝から俺の部屋には来ることもなかった。だが、木枠とガラス板で出来た扉からは動く影がちらついていた。

失敗は許されない。

三和土にはまだ俺の通学靴が置いたままにされていたので、ゆっくりと近づき腰を下ろす。静けさのお陰で、扉の向こうの会話さえ鮮明に聞こえていた。

「圭太、大丈夫かしら。」

家は祖父母が亡くなってから両親と俺の3人暮らしだから、平日の午前中には会話の相手などいないはずだ。となると・・・。

「俺が見てきてやろうか?見に行ったぐらいでうつったりしないだろう」

その言葉を聞いたとき、一瞬寒気を感じなくなるほど息がつまった。
ガタン。と椅子から立ち上がるような音がして、台所のガラス板に人影が大きく映る。扉が軽く揺れた瞬間、俺の体温は45度を超えていたと思う。


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