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短編小説 幻谷(まぼろしだに)⑤

外に出て静かに扉を閉めた時、今日一度も外を見ていないことに気づいた。
2月。それは一年で一番、天から厄介なものが降り注ぐ月でもある。

「・・・雪だ」

家の前から見える住宅街の景色は、どこもかしこも白無垢をまとったように雪が積もり、昨日とは別世界に出たようだった。

軒先から先のレンガタイルの敷石は、隣合うレンガの境目が分からなくるほど、白一色の上品で澄ました顔に染まっている。

はーっと吐き出した息は、綿あめが蒸発していくように柔らかく消えて、吸い込んだ息は、熱を持った体の内側にひんやりと染みて行った。

久しぶりの白銀の世界に見とれていたその時、後ろのドアの向こうからドンッっという音がして、父が階段の方へ歩いて行った。

「・・・どうしようかな」

予想外の天気に、決意が揺らいだ。
自家用車で通勤している父が朝からいるということは、それだけ交通が麻痺している可能性がある。ここから思い切って坂を下り、駅に着いたとしても、電車が動かないのでは話にならない。

とりあえず玄関の横にある部屋の窓の下に座り込み、スマホで交通状況を調べようとしたが、画面を開いたとたんタイムラインにニュースアプリからの速報が入った。

「大雪により、国立大学の試験も開始予定時間を延長か」

思わぬ吉報に、揺らいでいた決断が再び固まり始めた。すぐさま、大学に電話して試験開始時間を聞きたいところだったが、ひとまず駅に向かうため家の前の坂道に出ることにした。両足に力を込めて、気合いを入れるようにして立ち上がると、少しだけしっかりとなったような気がした。

生前の祖父と祖母が使っていた軒先の隣の部屋は、今は誰も使っていないので、隠れなくても外玄関までは誰にも見られることはない。だが、そろそろ父が異変に気付きそうだったので、思い切って小走りで雪の中を進むことにした。

一歩踏み出すごとに食感のいいクリスピーアイスのような感覚が、足の裏から伝わってくる。だけど、熱を持った頭には普段と違う足元と、頬に伝わる寒さが余計に体力を奪う。大して動いていない今でも、口元から小刻みに白い息が立ち上る。

外玄関の扉を出て、無数の足跡が残っている坂道に出る。車が入らないこの道には、どこに行くにしてもまず上るか、下るかしなければならない。上に進んでも駐車場しかないので、坂道を下ってバス停に向かう。

何度か踏み固められて、滑りやすくなった足元に注意を払いながら降りていると、突然叫び声が聞こえた。

「圭太!!どこだ圭太!!」

親父がシンと静まり返った雪の静寂を蹂躙するかのように、俺の名前を叫びまくる。恐らく、近所中に聞こえているに違いない。恥ずかしさで熱が上がりそうだ。

「やばい、全然進まない…」

もう少し進めば、道が曲がって家の前に出ても見えなくなるのだが、熱のふらつきと坂道のコンディションの悪さで思うように歩けない。何時もなら走って1分もかからないのに。

そしてちょうど、坂道の真ん中に差し掛かった時だった。あと少し進めば曲道に入るというとき、一足速く父に気づかれた。

「圭太何してる!?」

振り向くと、趣味の悪い迷彩のダウンを着た親父が、坂道の上から唖然とした表情で俺を見下ろしていた。

つづく

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