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短編小説 幻谷(まぼろしだに) ①

「暑い・・・。」

丈の短いカーテンの隙間から夏がやってきた。
雑然とした部屋には、梅雨だった昨日とは比にならないほど力強い日差しが入り込み、飲みかけのペットボトルや卑猥な雑誌を神々しく光り輝やかせる。空気には酸素よりも湿度が充満しているみたいで、朝一番の呼吸は生ぬるい。湿ったベッドの上で寝返りすると汗ばんだ肌にTシャツと短パンがびっちりと引っ付いてくる。

「(ピンポーン)」

通常の3倍ぐらい重たくなった腕をだらりとおろして、床に置いている充電機に繋がったスマホを拾う。
画面を点けるとぴったり8時。どうやら今日も、あのボケ老人が来たらしい。

「(ピンポーン)」

2度目のチャイムが鳴って、朝一からこめかみに力が入る。だが、「出ない」という選択肢は、「出る」という選択肢よりも悲惨な結果を招くことはもう経験済みだ。

起き抜けのだるい体のままベッド降りて、雑誌や大学の教科書を踏みながら玄関に行くと、3度目のチャイムが鳴った。いつもより一回多いので、さすがにイラついた。

「幻谷は前の道を左に登って行ったところだって言ってんだろ!!」

ドアを開けながら食い気味に言うと、スーツを着たバーコード頭のじじぃはポカンと口を開けたまま俺の顔を凝視していた。

「・・・チッ」

俺がさっさと終わらせようとドアを閉じていると、じじぃは何か言いだした。しかし、このやりとりも何十回と繰り返しているので聞かなくてもわかる。

「おたくさん、お名前・・・」

最後まで聞かずそままドアを閉めたので語尾が消える。だが、丁寧に答えたところでまた来週やってくるのだ。

(つづく)




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