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短編小説 幻谷(まぼろしだに)④

「ちょっと待って」

扉が開きかけた時、奥から母の声が響いた。それと同時に取っ手に手をかけていた父の動きも止まる。そして、俺の呼吸も止まったままだ。

「どうせ行くなら、ポカリとバナナ持って行って。あと、何か食べたいものがあるか聞いてきてくれる?」

冷蔵庫を開いたり、食器がカチンとぶつかる音がすると扉の向こうの陰もゆっくりと戻り始めた。

「国立志望が試験前に国立シボウ、なーんつって」

と、父の声が台所の奥の方から聞こえた時、やっとまともな呼吸ができた。父のいつも通りの分かりにくいダジャレに呆れつつ、通学用の革靴に足を入れる。もたもたしていると、次は本当に見つかってしまう。

しっかりと靴を履いて立ち上がると、相変わらずのふらつきや寒気の症状に加え、今度は一瞬視界がぼやける感覚も出てきた。

「(頼む、終わるまでもってくれ)」

そう願いながら、玄関ドアに手をかけて横にスライドさせようとしたとき、ガチっと引っかかった。しまった、今日は俺が最初に家を出るから、鍵がかかったままだ。

「ねぇ、今なんか音がしなかった?」

母の言葉に心臓が強く拍動を打った。やばい、一生の不覚だ。背筋に冷汗が流れるような緊張が走るが、右手は静かに上下スライド式の鍵に載せる。

「(もし誰かが来たら、思い切ってダッシュしよう)」

そう決意した時、父が思わぬ助け舟を出してくれた。

「こんな天気だからさ風じゃないの?玄関でゲン聴」
「あんたさ、ダジャレが言いたいの?それとも韻を踏みたいの?」
「う~ん。まぁ、聞き手次第ってことで」

くだらない会話の間に、つまみを上にスライドさせて静かに鍵を開けた。

生まれて初めて父の馬鹿さ加減に感謝をして、ドアの隙間から入り込んできた凍えるような冷たい空気を硬く吸い込んだ。

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