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短編小説 幻谷(まぼろしだに)⑥

「決まってんだろ!試験に行くんだよ!!」

シンと静まり返った白い坂道で自分の声が反響する。俺と親父以外この世界に存在しないような、不思議な感じがした。

「はぁ?そんな体で試験に行っても、受かるわけないだろ」

呆れた声で当たり前のように決めつけてくるあの表情が、憎くてたまらない。

親父はなんでもそうだ。相手を馬鹿にしたよう態度で「ありえない」とか「当たり前だろ」とか言って否定した後に、自分の狭い了見で考えたこの上なく普通のことを「お前ら、こんなこと考えつかないだろ?」みたいな素振りで披歴してくる。私大しか出てないくせに。

「そんなこと、行ってみなくちゃわかんねーだろ!」

気分が悪い上に、別の意味でも気分が悪くなる。無視して進もうとしたとき、家の方から別の声が聞こえてきた。

「駄目よ、行ったら!!」

ガポガポと間の抜けな音を立てて、家の前に母が走って出てきた。慌てて出てきたのか、青いエプロンのまま黒い長靴をはき、短いスパンで口から白い息が上っている。

「来年もあるから!!なんなら、私大でもいいから。それぐらいのお金はまだあるから」

必死に説得してくる母の言葉に、チクリと胸が痛んだ。だが、私大だけは嫌だ。あの親父なんぞと一緒の学歴とは一生の恥。

「まぁ、そもそも今日は交通が麻痺しているから、今から行ったってどうしようもないぞ。いいからひとまず戻りなさい」

困ったやつだ言わんばかりの顔をしながら、ゆっくりと坂を下ってくる。やっぱり交通状況は良くないのか、と納得する部分もあるが、あの顔で言われると素直に従う気になれない。

「それでも行くんだよ」

自分に言い聞かせるように言った言葉だったが、意外にも親父の方まで聞こえていたらしい。しかし、内容までは上手く聞き取れなかった親父が「なんだって?」と耳に手を当て、姿勢を傾けたその時だった。

「うお!!」

と叫んで親父が頭から転げ落ちて一回転した。そのまま足を投げ出すように着地して止まるかと思ったが、凍結した坂道の上でなすすべもなく縦に横にと転がされ始める。

そして、うめき声をあげなら転がっている親父の体は、確実に俺に迫っていた。

「やばい」

脳では身の危険が迫っているとわかっているが、インフルエンザの熱と寒さで普段より判断力がなくなっていた俺は身動き一つとれず、そのまま親父の体を足で受け止めた。

膝に重い痛みを感じたまま俺は後ろに倒れたが、背負っていたリュックがクッションとなり転がるようなことはなかった。ただどうしようにも運の悪かった俺は、背後にあった曲がり角のコンクリートの壁に頭をひどく打ち付けて、意識を失ってしまった。

今でも頭を打つ寸前の映像はスローモーションとなって記憶に残っている。鍋の灰汁のような雪雲と、俺を嘲笑するようにふわふわ降り続く粉雪だった。




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