2つの牧野城

織田信長は、今川義元を殺したが、織田信長の同盟者である徳川家康は、今川氏真を保護した。(織田信長のやり方はチェスで、徳川家康のやり方は将棋。寛容ゆえか、1個でも多くの駒が欲しかったゆえか。)

天正3年(1575年)、徳川家康は、武田方の城である諏訪原の諏訪原城を落とすと、台地の名を牧野原、城名を牧野城と変え、城主として今川氏真を入れたという。

一説に、牧野城(旧・諏訪原城)の城主になったは牧野氏で、今川氏真は牧野氏の居城・牧野城(愛知県豊川市牧野町)の城主になったという。豊川市の牧野城は、今川義元の胴塚に近い。

さて、徳川家康は、「諏訪原」「諏訪原城」という諏訪氏(武田勝頼)由来の名を消すために、「牧野原」「牧野城」と変えたが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後の織田信長の凱旋の記事が『信長公記』に次のようにある。

 ──真木のゝ城、右に見て、諏訪の原を下り、きく川を御通りありて、のぼればさ夜の中山なり。

城名は「牧野の城」に変わっているが、台地の名は「諏訪の原」のままである。逆に、現在の呼称は、台地の名が「牧之原」、城名が「諏訪原城」である。いつ、逆転したのだろう?

徳川家康のやり方は中途半端だ。比叡山を焼いた織田信長であったら、武田勝頼が建てた諏訪神社も焼いて、八幡宮か秋葉神社を建てるのでは?

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