見出し画像

『伊束法師物語』二「広忠公御死去之事」

(1)あらすじ


岡崎城主・松平広忠が若くして死んだ。
岡崎城では家老衆が協議していた。結論は、
「織田に人質に出している竹千代を岡崎城主にする」
であるが、その方法として、
・織田と手を組んで、竹千代を返してもらう。
・このまま今川と手を組んで、織田と戦って竹千代を奪い返してもらう。
のどちらかにするか悩んでいた所、今川義元は、岡崎城に城代を入れ、岡崎を管理下に置いた。

(2)原文


 天文己酉歳三月六日に、広忠公、廿五歳にて御死去成られ畢(おわんぬ)。去る程に、岡崎にても頼るべき方なし。然るに、 一門中、家老の面々、差し集まりて、評談有りける。石川伯耆守、本多肥後守、天野甚右衛門、此の三人、申しけるは、織田備後守方へ申し寄せ、尾張と一味して竹千世殿を相違無く岡崎へ帰城させ、守り立て申すべしといへば、石川安芸守、酒井雅楽介 、申しけるは、今川義元は、既に、領内三ヶ国にて、四万余騎の大将なれば、此の力を以て本意させ申すべしといへる。扨、上村出羽守、鳥居伊賀守、其の外、相残る面々のいへるは、尾張と一味ならば、早速、本意たるべし。乍去(さりながら)、駿河と手切れ有るならば、三ヶ国の軍勢を以て、取り詰めらるゝ事ならば、たちまち難儀に及ぶべきといへり。されども、軍の勝負 、されとも軍の勝負 、されとも軍の勝負 、されとも軍の勝負 、されとも軍(いくさ)の勝負は多少にはよらず、先年、小豆坂の合戦に駿河の勢は三万余騎の着到也けるに、織田備後守、三千余騎のを以て馳せ向ひて、五分の三ツは、味方、利を失ふ。尾張と一味ならば、早速帰城たるべし。義元三ヶ国の軍勢を催すならば、御本意は互う(違(たが)う?)申すべきといへる。終に評儀は、落居致さず処に、広忠公御死去の由、義元卿聞こし召し、駿府より岡崎の城へ在番を入れらるゝ也。朝比奈備中守、岡部次郎兵衛、鵜殿長門守を頭として、義元卿近習衆三百余騎、篭(こめ)おかれけるに依りて、それより是非なく、岡崎は、駿府を守つて居り申しける。

(3)現代語訳


 天文18年(1549年)3月6日、松平広忠は、25歳という若さで亡くなった。それで、岡崎では(主君は死没で不在。主君の嫡男は幼少で、しかも、人質として尾張にいて、)頼るべき人がいなくなった。(と訳した(解釈した)が、『三河記』では、「天文十八年己酉三月六日、広忠二十五歳にて御逝去被成畢。去程に岡崎にては、闇夜に燈消て破窓の雨に向らんも角たと覚て頼方なく成にけり」(暗闇で破れた窓から降り込む雨に向かうくらい頼りない状態)という例え話になっている。)そこで、 松平一門の家老衆たちが集まって、今後のことを話し合った。
 石川伯耆守数正、本多肥後守忠真、天野甚右衛門景隆の3人は、「尾張国の織田備後守信秀に連絡して、尾張と一味同心して、尾張で人質となっている竹千代を確実に岡崎帰に戻してもらって城主とし、(主君にしてはまだ幼いが、)我らが守り立てればよい」と言うと、石川安芸守数正、酒井雅楽頭正親 の2人は、「今川義元は、既に、領内三ヶ国(駿河・遠江・三河国)に、4万余人の兵を持つ大将であるから、今川義元の力を借りて、本意を遂げさせれば(竹千代を奪還して、岡崎城主とすれば)よい」と反論した。さて、植村出羽守氏明、鳥居伊賀守忠吉、その他、残りの人々がいうには、「尾張と一味同心すれば、すぐに本意を遂げられる(竹千代を返してもらって、岡崎城主とできる)。これは、今川と手を切るということである。今川と手を切れば、三ヶ国の軍勢4万人で攻められ、あっという間に窮地に陥ってしまうと思われるであろうが、合戦の勝敗に兵数の大小は関係ない。実際、先年の小豆坂合戦では、今川軍は少なくとも3万人はいたが、織田軍は(その1/10の)3000余人で立ち向かい、3/5の確率で、今川軍が負けると思われた。まとめれば、尾張と一味同心すれば、すぐに竹千代は岡崎城へ返される(が、今川軍に襲われる)し、今川義元が三ヶ国の軍勢4万を率いて来てくれても、やはり、竹千代は岡崎城へ戻れるだろう」と言い、結局、結論はでなかった。
 今後の方針を決めかねている内に、松平広忠の死亡が今川義元の耳に入り、(「ここまま、岡崎城が城主不在では戦略的にまずい」として)駿府から、岡崎城へ城番を入れることにした。こうして、朝比奈備中守泰能、岡部五郎兵衛元信、鵜殿長門守長照を頭として、今川軍近習衆300余人が岡崎城へ入れられ、その後、是非(いいも悪いも)なく、岡崎城は、駿府の管理下に置かれた。

(4)考察


 第1章が詳しかっただけに、がっかりしました。
 短すぎる・・・。
 私が知りたかったのは、松平広忠の死因なんですが・・・。

天文16年(1547年)8月2日 竹千代、駿府に向かうが、奪われて熱田へ。
天文18年(1549年)3月6日 松平広忠、若干24歳で死去。
天文18年(1549年)11月9日 竹千代、織田信広との人質交換で駿府へ。

 尾張の織田信秀と、駿河・遠江の今川義元に挟まれた三河の松平広忠は、松平信孝を疑ったのが発端で、織田信秀に攻め込まれ、今川義元に支援を頼むと、承諾されるも、人質を要求されたので、嫡男・竹千代を駿府へ送ろうとするが、その竹千代は、駿府へ向かう途中、外祖父・戸田康光に奪われ、織田信秀に売られてしまった。(以上、第一章。)
 松平広忠の頼みで岡崎へ向かった「黒衣の宰相」太原雪斎率いる今川軍4万は、小豆坂で、織田信秀率いる4000と戦い、引き分けると、織田信秀は安祥城へ退いた。安祥城の城番は、織田信広(織田信秀の長男。側室の子で、正室の子・織田信長(3男)より10歳以上だという)であった。太原雪斎は、安祥城を攻め、織田信広を生け捕りにすると、笠覆寺(通称「笠寺観音」。名古屋市南区笠寺町)に於いて、竹千代と人質交換した。
 竹千代は岡崎に戻るが、すぐさま、人質として駿府へ送られた。

松平広忠の死因については、
①病死説:労咳
②暗殺説:岩松八弥が殺害し、その場で植村氏明が岩松八弥を斬った。
③鷹狩の際、渡村で(織田信秀がやらせた)一揆に巻き込まれて死亡
と諸説あり、はっきりしない。
 松平広忠が亡くなり、嫡男が元服まで、しかも人質に出されているとなると、三河は草刈場(多くの武将が領地を奪い合う場所)になるので、死んだことは秘され、密かに焼かれて埋められた。(焼かれたのが松應寺で、埋められたのが大林寺だという。)
 ところが、松平広忠の死はすぐにばれ、今川義元は、岡崎三城代(飯尾豊前守乗達、二俣近江守持長、山田新右衛門景隆)を派遣し、岡崎城の本丸に入れて、岡崎を統治させた。(実務は、二之丸の鳥居忠吉と三木城を攻め落として松平信孝を追放した阿部定吉が行った。)この今川軍に依る岡崎の統治は、永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いまで続いた。この間、岡崎衆は、三河国内の戦いにおいて、先陣を任され続けて、疲弊した。ただ、酷使されたとはいえ、見方によっては、今川義元は、岡崎城が主君不在で廃城になるのを救ったとも言える。また、松平広忠が生きていても、三河国を統一する気があれば、戦いの日々に成るわけで、三河衆に命令するのが、他人の今川義元か、我らが松平広忠かの違いだけであって、結果的には、三河国が戦いで痩せ細ることには変わりなかったようにも思われる。

サポート(活動支援金)は、全額、よりよい記事を書くための取材費に使わせていただきます。ご支援よろしくお願いいたしますm(_ _)m