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勧学・司教有志の会 声明(七の四)

浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会から「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」に対する声明の第7弾4が発表されました。

ー総合研究所冊子の問題点ー

衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

『教行信証』「信文類」(『註釈版』二五一頁)

【問題三】 本論において、多くの先学の文章を掲げているが、いずれも前後の文脈を無視したきわめて恣意的な引用となっており、読者に誤解を与えている点

 これまで述べてきたように、冊子の序論における解説は宗義として成り立たないが、続く本論では、先学の文章をその論述意図を無視して引用するなど、学問的にも道義的にも問題があり、このような冊子が本願寺派総合研究所の名で出されたことに、深い失望の念を禁じえない。
 本願寺派の研究所は、これまで宗門内外から高い評価を得てきた。特に聖教の編纂においてはデータの集積から研究・出版に至るまで、重厚かつ緻密な業績を積み重ねてきた機関である。しかし、このたびの冊子は、全体にわたって辻褄合わせの説明に終始しており、その説明を正当化するために聖教の文を扱い、さらには先学の文章までも都合のいいように恣意的に引用している。これは研究所の名を貶めるばかりではなく、本願寺派の教学への信頼を失墜させるものであり、ひいてはご本山やご門主さまのお立場をも傷つけるものである。そして引用された先学の方々に教えを受けた人々が強い憤りを覚えていることを、この冊子を制作した責任者である総合研究所所長(当時)の満井秀城氏は知っておくべきである。
 そこで本声明では、主に本論「はじめに」における村上速水和上の文章の引用、そして本論後半における梯實圓和上の講義録の引用のあり方について大きな問題があることを指摘し、逐一の引用における問題点については「附論」において論じることとする。
 まず「はじめに」のなかで引用された村上速水和上の文章について、文脈を無視した切り取りがなされていることに言及しておきたい。冊子に引用された村上和上の文章では、真実の智慧によって実相が知られるならば、同時に現実が虚妄であることも知られるとし、「現実の虚妄相を認知すればこれを憐愍せざるを得ない」として、その根拠に『往生論註』善巧摂化章が挙げられている。前後も含めた引用元の村上和上の文章は、本声明(七の三)で述べたものと同様に、衆生の虚妄を知ることをもって、阿弥陀仏の慈悲の生じている直接かつ根本の理由とするものであることは明白である。けっして一如平等とみる智慧のみをもって、慈悲の生起を語られたものではない。むしろ引用箇所の直後には「迷悟の差別宛然たるところに救済の悲願が起る因由があり」と明確に述べられている。
 にもかかわらず冊子では、こうした前後の文脈をまったく無視して、あたかも村上和上が「〈煩悩菩提体無二〉という真実の智慧に基づく阿弥陀如来のお慈悲」を述べているかのように断定し、「本来一つゆえ」の一行の正当性を示す文章とするのである。あまりに恣意的に過ぎ、これは端的にいって、引用ではなく利用である。このような手法は「はじめに」だけではなく本論全体にわたって見られ、学問的にも道義的にも問題があると言わざるをえない。
 次に、本論後半において、梯實圓和上の講義録をことさらに「最晩年のもの」と断りつつ、きわめて恣意的に切り取っていることを指摘しておきたい。梯和上の講義内容は、無分別智によって感得される一如の領域について語られたものであり、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の一行とはまったく関係がない。むしろ引用箇所の直後からは、一如平等とみる無分別智ではなく、万法の差別を見通して言葉をもってはたらきかける「無分別後得智」という仏智の側面(清浄なる分別智)の重要性について語られており、阿弥陀仏の名号をその「〈無分別後得智〉の現れ」として講義を結ばれている。したがって、けっして本来一如だから阿弥陀仏の救済が成立するなどと講義されてはいないのであり、冊子は梯和上の講述意図をまったく無視している。先学の言葉を単なる権威として利用するこのような手法は、研究者として恥ずべき行為である。
 このような手法は、それだけでも許されないものであるが、その上で、冊子の結論では「本来一つゆえ」の一行について、「序論でも述べたように議論の余地はない」と断定している。もはや暴論というほかないが、この「議論の余地はない」についても、序論では、

「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」の部分については議論の余地はまったくない。

と述べていながら、結論では、

あらためて言いうることは「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の一行は、・・・中略・・・序論でも述べたように議論の余地はないといえる。

と述べており、序論にはない「ゆえ」という理由句を加えることで、あたかも「本来一つ」が阿弥陀仏の慈悲の起こる理由として問題ないかのように、論点をすり替えている。冊子のいたるところに見られるこのようなごまかしにも、私たちは惑わされてはならない。

 以上、この冊子は制作意図からして浄土真宗の根本的立場を無視しており、その内容についても、辻褄合わせの説明のために聖教の文を扱い、自らの主張を正当化するために先学の文章までも恣意的に利用し、さらに論点のすり替えを行って「議論の余地はない」と一方的に結論している。学問的にも道義的にも問題のあるこのような冊子を宗門の全寺院に送付して、各地の僧侶・門信徒の方々の憤りの声を封じ込め、悲しみの声を無視するのであれば、それはもはや同朋教団のあり方とは言えないであろう。
 冊子を制作した責任者である満井氏は、学階「勧学」有階者である。およそ勧学・司教は、ご法義を護ることにおいて、ご本山そしてご門主さまを護っていく。勧学・司教にとって、ご法義を護ること以外に、ご本山・ご門主さまを護る術(すべ)はないことを、心に刻んでいただきたい。
 最後に、この声明文は本願寺派の勧学・司教有志により発するものであるが、その「志」(こころざし)とは、ご法義を尊び、お念仏を大切にする僧侶と門信徒の同朋同行と共に、ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。

二〇二四年 五月 九日
浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会

代表 深川 宣暢(勧学)
森田 眞円(勧学)
普賢 保之(勧学)
宇野 惠教(勧学)
内藤 昭文(司教)
安藤 光慈(司教)
楠  淳證(司教)
佐々木義英(司教)
東光 爾英(司教)
殿内  恒(司教)
武田  晋(司教)
藤丸  要(司教)
能仁 正顕(司教)
松尾 宣昭(司教)
福井 智行(司教)
井上 善幸(司教)
藤田 祥道(司教)
武田 一真(司教)
井上 見淳(司教)
他数名

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