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築地本願寺のご示談に新領解文の質問が多数

2023年11月11日~16日、築地本願寺の報恩講にて、12日~15日に親鸞聖人の教えに関する疑問に答える「御示談(ごじだん)」が行われました。担当者は相馬一意勧学です。4日間、日々「新しい領解文」に関する質問があったので、ここに抜き出して紹介します。相馬勧学は、「ここでお話することは、あくまで勧学・相馬一意の個人的な意見で、法義に関わる問題についての見解です」と何度も繰り返し述べながら、説明されました。


「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の「ゆえ」とは?

11月12日

私は勧学寮員なので公式的には、勧学寮が発行した解説文のとおりにご理解ください。これでみなさん納得しますか?今問題になっているのは、そう簡単に納得できないから、このような質問が出てくるのでしょう。ひとりの勧学、仏教学を学んできた相馬一意として意見を申し上げます。一部分だけを取り上げて、相馬はこんなことを言っていたと言っても構わないが、私は責任を持ちません。話す時は全部理解した上にしてくださいね。

個人的には、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」という表現は、我々の生きている世界では成り立ちません、と思います。迷いの存在と仏の存在は違う。違うから仏が迷っている者を救おうとご本願をたて、お名号を建立して、我を信じ我が名を称えよと呼びかけてくださっている。ですから、「本来一つゆえ」から「そのまま救う」にはつながらない文だと思います。仏教学を学んだ私とすれば、私の煩悩と仏のさとりは本来一つと言える世界は仏の世界。親鸞聖人の言葉では、思いつくままにいくつか上げますと、「法性真如(ほっしょうしんにょ)」あるいは「一如法性(いちにょほっしょう)」。みな同じ、真実そのもの、仏のさとりと思ってもらえば結構です。このさとりについて言うのが、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」と言えることだと思います。私もみなさまも迷っている存在。我々の世界は迷いの世界ということですね。だから、私の煩悩と仏のさとりは一緒じゃない。「本来」というのは、本当はということなので、仏の世界。この一如法性の世界を聖人はどうおっしゃっているか。『唯信鈔文意』には、

法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。

『唯信鈔文意』(註pp.709-710)

とおっしゃっている。したがいまして、「言葉もたえたり」と言っているところを、言葉で表現してどうするんだ。というのが私の感想です。

繰り返しますが、迷いの煩悩があって、自力ではお浄土に行けない存在があるから、阿弥陀如来はご本願をたて、信心を与え、念仏せしめて、浄土往生せしめていくという活動を起こす。これは迷いの世界で働いている事柄ですね。そのように全体を考えていけば、少し無理がある表現ではないかと思っています。でも、このまま間違いだと言うのは難しい状況があるので、勧学寮としては、仏の立場から説明したものだと解説しているので、両方を等分に見て批判していただきたいと思います。


「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」なのか?

11月13日

昨日、「一如法性」という言葉を出しました。真実の世界、仏の世界。それに対して「迷界」。迷いの世界、私たちの世界ですね。「私の煩悩と仏のさとりは一つ」というのは、「一如法性」の話だと言いました。私たちの生きている世界は残念ながら、煩悩とさとりは一緒ではありません。だからこそ、阿弥陀如来はご本願をたて、そういう人間を必ず救う。本願、名号、信心というものを私たちに与えてくれる。ですから、私個人としましては、公式的にはこのように考えております。一如法性の仏の世界の次元ならば、「私の煩悩と仏のさとりは一つ」と言えましょう。真実の世界は、「こころもおよばれず、ことばもたえたり」の世界ですから、「私の煩悩と仏のさとりは一つ」と言ってもしょうがないんです。ただ、仏の世界の次元ならば一つ。しかしながら、私たちの生きる世界、迷いの世界。これ迷いの世界だから阿弥陀如来が働いているんですよね。だから阿弥陀如来の活動されている世界、我々の生きている迷いの世界では、一つではありません。別のものだ。これが私の答えです。

少し別の面から加えますと、内藤知康和上という方がいます。この和上が昨年亡くなったのですが、この方の著作に、法蔵館から2017年に発行された『正信偈』という本があります。これ1冊で真宗の教えは全部出ています。私が何十冊か読んだ「正信偈」の本の中で、個人的には1番優れている本だと思います。その中にこういう章があります。「迷いとさとり。仏と私の不二而二(ふににに)」。不二というのは、2つでない、1つということですね。仏の世界から見れば2つでないけれども、私の世界では2である。もう一つ、「迷悟而二(めいごにに)」とおっしゃっています。ぜひ読んでみてください。


門主と聖教はどちらが優先されるのか?

答えにくいですね。ストレートに答えると、あとで宗務長さんあたりにお叱りをいただくような気がします。真宗教義の問題ではないと思いますが、少し関連したことで、私の個人的な意見を申します。

浄土真宗で1番優先されるべきは何かという質問には答えておきたい。個人的にはお聖教だと思います。お聖教に書いていないことは、どんな正しいことであろうとも、私は抵抗いたします。お聖教がやっぱり基本。お聖教が何かと言えば、浄土三部経、親鸞聖人が書かれたもの、七高僧の著作、他にもありますが、これだけは外せない。優先させるべきはお聖教であろうというのが私の答えで、宗祖親鸞聖人のお考えも、お聖教が優先ではないかと私は考えております。七高僧の註釈版で、善導大師の「序分義」というのがあります。『観経疏』4巻の「序分義」は2巻目ですね。ここにこういう表現が出てきます。

「読誦大乗」といふは、これ経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。

『観経疏』「序分義」(七註p.387)

みなさん、梯實圓和上を知っていますね。ごはんをご一緒して少しアルコールも入った時に、「お聖教というのは1回読んだらすぐ覚えますか?」と聞いたことがあります。すると「相馬さん、何アホなこと言うてんの。頭の良し悪しなんていうのは大した違いじゃない。私もお説教に行く時には、元になるお聖教を必ず読む。相馬さんよりお説教の回数が多いから、お聖教を見る回数が多いだけや」。あの立派な先生が繰り返し読んでいるということですよ。「しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す」のそのままだと私は思いました。それ以来、私はこの言葉をモットーにしています。要するに真宗はお聖教が基本だということを申し上げたい。


「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の出拠は?

11月14日

「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」と「そのまま救うが弥陀のよび声」、この2つを一緒にしてどこに出てくるかと質問されたら、そんなものは知らんと答えます。「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の出拠は見つからないというのは、これまでにも言っておりますし、本来一つというのは仏の世界の話だし、我々の生きている世界は煩悩とさとりは全然違う、別物だという話もしました。「一つゆえ」というのを理由句にするのもナンセンスですね。つながらない。

質問者に答えますと、「本来一つゆえ」までのご文は、依っている文はない。明日またちゃんと来てください。きちっとお聖教をあげて説明する予定です。後半の「そのまま救うが弥陀のよび声」というのは、お名号です。我を信じ我が名を称えよ、必ず助けるというのが、南無阿弥陀仏ですから、お名号について書いているお聖教ならば、第17願、あるいは第18願の説明のところということです。


「新しい領解文」はなぜ問題になっているのか?

これもストレートに答えるといろいろ大変ですが、一つは、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」という表現が批判されている。それから、「少しずつとらわれの心を離れます」というところ。これも、私がとやかく言うことはないですが、宗祖のお言葉を出すと、

凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。

『一念多念文意』(註p.693)

煩悩は死ぬまで消えない。絶えることはない。一時的に煩悩が表にあらわれないようなことはありましょうけれども、それを「少しずつとらわれの心を離れます」という言葉で表現をすると、少しずつ人間が上等になっていくという考え方につながる恐れがあります。これ以上のコメントは明日します。

次に、「日々に精一杯つとめます」。これはいい言葉ですよ。パレスチナの犠牲者のために日々に精いっぱい尽くしてください。命かけてやってください。ウクライナで犠牲になっている人を救うために活動してもいい。そういう日常生活に命をかけてやってもらって構いませんし、努力してもらったらよいですが、あくまで私たちは、「浄土往生」ということに関わって問題にしているんです。自力では浄土往生出来ないから、阿弥陀如来がご本願をたて、信心まで与えてくださっている。

少し専門的な話をします。
親鸞聖人の「信文類」というところで、三心一心の論争、「三一問答」というのが、「信文類」で1番大切な、面白いところですが、そこでこんな議論をやっています。『浄土論』を書かれた天親菩薩は、一つの心、「一心」で信心をあらわしている。一方で『無量寿経』には、「至心(ししん)、信楽(しんぎょう)、欲生(よくしょう)」という3つの言葉であらわしている。これを親鸞聖人が自問自答しているんです。なぜお経にそう書いてあるのに、天親菩薩は「一心」で答えたのかと。そこで親鸞聖人が考えたお答えは、

愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主、三を合して一とせるか。

『教行信証』「信文類」(註p.229)

「愚鈍の衆生、解了易からしめんがために」というのは、アホな愚かな我々が理解しやすいように「一心」とおっしゃったんだ。これが第1の答えですね。そうしたら次に、これはなかなかやっかいな問題ですが、愚かな我々が理解しやすいように説いたというならば、第18願というのも、愚かな我々を救うために建てられた本願で、そこには「至心・信楽・欲生」と3つで説いたのはなぜか。と、もう一度問うている。これを親鸞聖人は、仏の心はわからんけれども、私なりに考えてみると、こういうことも有り得るかと議論をしているのですが、それをゆっくり話している時間はないので、その説明の中に、宗祖が使った言葉ではないですが、「機無(きむ)」「円成(えんじょう)」「回施(えせ)」「成一(じょういつ)」というのがあります。
「機無(きむ)」の「機」というのは阿弥陀様の教えに触れた私たち凡夫のことで、そういう私たちには浄土往生すべき力は何も無いということです。「私の煩悩と仏のさとりは一つ」なんていう悠長なことは聖人は言っていないですよ。私には往生すべき力は何も無い。だからこそ、阿弥陀如来がその心を成し遂げられたんだ(円成)。その成し遂げられたのが、「至心・信楽・欲生」という3つの心で、それを私たちに「回施」回し向けるということですね。回し向けられた時に3つの心と書いてあるけど、すべては真ん中の信楽、一心に収まる。その信楽の一心を天親菩薩は「世尊我一心」と一つでおしゃっているんだと。成一というのは、「至心・信楽・欲生」の至心と欲生は信楽に収まるということです。それで、宗祖はしつこいですよ。至心のところでも同じことを言うてるし、信楽のところでも同じことを繰り返し説明をしています。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

『教行信証』「信文類」(註p.231)

真実の心なんてないんだよとおっしゃる。

ここでの質問者に対する答えとしては、「日々精一杯つとめます」というのは、世間のことは精一杯つとめても構わないが、「浄土往生」に関しては、そういうものをつとめても何の足しにもならないというのがお聖教の教えです。と、私は解釈します。このあたりが大きな問題になっているのではないかと考えます。


仏の智慧について

11月15日

仏さまの智慧には、真実と一体になった智慧「根本智(こんぽんち)」と、慈悲や利他行をあらわす「後得智(ごとくち)」があります。根本智は世俗を離れた智慧(出世間智)で無分別智(むふんべっち)といい真実そのものをあらわし、後得智は世俗で働く智慧(世間智)で分別智(ふんべつち)といいます。言葉を使って話す世界をあらわしています。

仏さまのあり方は智慧と慈悲で考えますが、慈悲というのが作動しているのが後得智で、迷っている者に対してお前を救うという願いがあり、そのために阿弥陀として活動しているということです。これがまず智慧の基本的なことです。

「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」というのは、迷いの世界の話ではなくて、根本智の在り方をあらわしているんですね。それで、これをストレートに出してしまうと、私の煩悩もあなたの煩悩も、仏のさとりと一緒だと言ったら、阿弥陀如来は何のために第18願たてられた?何のために第17願がある?ということになってくるだろうと。ですから、新しい領解文に対して勧学寮が出した解説文がありますね。個人的にはあまり賛成ではなかったんですが、みんなの意見も入れてまとまったんです。あそこに、仏の智慧から慈悲が生まれて、慈悲からこういう言明になってくる、そういうことをあらわしています。

「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ、そのまま救う」の根拠について

質問者があげられているのは、「煩悩菩提体無二」あるいは「証知生死即涅槃」。こういうのが根拠ではないかと言われてきましたが、私の考えによれば、すべて根拠になりません。

「不断煩悩得涅槃」煩悩を断ぜずして悟りを得る。煩悩を断ずる必要がなくて悟りを得るのなら、煩悩と悟りは一緒じゃないかと。しかし、一部分だけを引っ張り出してそれを根拠にしてもダメですよ。ここはその前にどういう言葉が入っているかというと、「能発一念喜愛心」。これを宗祖の読み下しによれば、「よく一念喜愛の心を発すれば」と、こういう条件付きなんですね。『尊号真像銘文』にはここの解説を宗祖自らがされている。

「能発一念喜愛心」というは、能はよくという、発はおこすという、ひらくという。「一念喜愛心」は、一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土に生るとしるべし。

『尊号真像銘文』(註p.672)

平たく言えば、信心をいただいたならば、という条件付きです。残念ながら今ここにいる人たちは私と同じ凡夫です。この世の生を捨てた時に往生即成仏。「不断煩悩得涅槃」の世界が開かれる。

「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」
ここも同じことを言うてますね。信心起こせば、と信心を抜きにして宗祖は語ることはない。信心を起こしたならば、「証知生死即涅槃」。迷いの世界と仏の世界は一緒だと悟らしていただけるんだ。

「煩悩菩提体無二」というのは、高僧和讃にこういう和讃があります。

本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二と
すみやかにとくさとらしむ

『高僧和讃』(註p.584)

この「煩悩菩提体無二」が私の煩悩と仏のさとりが本来一つの根拠だと言いたいかもしれませんが、宗祖はそういうことは言うてないでしょ。おさとりの本質は、十悪を起こすような人間であろうとも、そういう人間を納め取ってくださると「信知」してとあります。そうして、さとったならば「煩悩・菩提体無二」と理解させていただけるような境遇になるということです。あくまで信心が肝腎で、「すみやかにとくさとらしむ」とおっしゃっていますね。

他に、「煩悩菩提体無二」ときちっと出てくるところがあります。

いま、わが惑心に具足せる八万四千の塵労門と、かの弥陀仏の具足したまへる八万四千の波羅蜜門とは、本来空寂にして、一体無礙なり。貪欲はすなはちこれ道なり。恚・痴またかくのごとし。水と氷との、性の異なる処にあらざるがごとし。ゆゑに経にのたまはく、煩悩・菩提は体無二なり。生死・涅槃は異処にあらずと。われいま、いまだ智火の分あらざるがゆゑに、煩悩の氷を解きて功徳の水となすことあたはず。

『往生要集』巻中(七註p.1017)

煩悩と菩提は体は一体だと言えるかもしれんが、私は煩悩と菩提は別の世界で生きている。だから、源信僧都自身もまだ智慧の火はない、迷ってるんだとおっしゃっている。ですから、ここは根拠に出来ませんね。

というように、どこをどう引っ張り出しても、根拠は見つからないということです。何度も言いますが、宗祖聖人は、真実の世界は、「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」とおっしゃっています。私の煩悩も仏のさとりも一つという世界は、信心を得たならば、そういう悟りがやがて恵まれますとおっしゃっているので、恵まれるはずの悟りを、このような表現で言うたら、少し内容が違うんじゃないかなと思います。

質問者はご和讃に「罪業もとよりかたちなし 妄想顚倒のなせるなり」を引いています。ご和讃も一部分だけ引っ張り出したらいけませんね。四句全体の意味を考えていただかなければ誤解を生じるのではないかと思います。

罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき

『正像末和讃』(註p.619)

ここは、根本智と後得智の両方を話していると思います(a句とc 句とが根本智、b句とd句とが後得智)が、問題はそこではありません。これを高田派に伝わっている国宝本を見てみると、

罪業もとより所有(しょう)なし
妄想顛倒よりおこる
心性みなもときよければ
衆生すなわち佛なり

高田派国宝本(聖典全書二p.524)

「心性みなもときよければ 衆生すなわち佛なり」と言うたら、親鸞聖人だって私と同じ考えに至るんじゃないですか。それでは、阿弥陀さまは何のためにあるんだ?ご本願は何のためや?だから、文章を変えられていったんだと思います。その根拠は、私に清浄心はない、というのが宗祖の「機無」の考えですね。「信文類」の序文(註p.209)にありますが、自性唯心に沈んだらあかんでと書いてある。心性は仏と同じなんだという考え方は仏教にはありますけど、それを受け入れてしまうと、今言ったように、阿弥陀如来の本願は何のためにあるんだという問題にぶち当たりますから、「心性もとよりきよけれど」と変えておられる。私に言わせれば、心性はもとより清いという考え方は、親鸞聖人はもとより取っていらっしゃらない。「機無」の考え、「清浄の心なし」のおことばを考えてみてください。他力の信心に救われていくというのが宗祖の考え方です。

だから、この和讃も根拠にはなり得ない。というように、私は「新しい領解文」には少し誤解を生むような表現があるのではないかと思います。私の意見なので、違う意見もあると思います。

以上で今年のご示談を終えたいと思います。


引用文のページ数は「浄土真宗聖典(註釈版)」です。


本願寺の法義示談は5月から休止中。説明がないため理由はわかりません。


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