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勧学・司教有志の会 声明(七の二)

浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会から「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」に対する声明の第7弾2が発表されました。

ー総合研究所冊子の問題点ー

衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

『教行信証』「信文類」(『註釈版』二五一頁)

【問題一】序論①において、あえて宗学で用いる「約仏」「約生」という専門用語を使って解説しているが、明らかに言葉の誤用であり、読者をさらに混乱させている点

 まず序論①に出てくる「約仏」「約生」という言葉の使い方について述べておく。
 本来は、「阿弥陀仏による衆生の救済」という一つの事態について、救う仏(如来)の側から表すことを「約仏」といい、救われる衆生の側から表すことを「約生」という。こうした表し方は、宗祖親鸞聖人がなされたものである。たとえば「帰命」という言葉について、『教行信証』「行文類」では、

帰命は本願招喚の勅命なり。
(「帰命」とは、わたしを招き、喚び続けておられる如来の本願の仰せである。)

(『註釈版』一七〇頁)

と示されているが、これは如来の側(約仏)から「帰せよの命」という喚び声として解釈されたものである。一方、『尊号真像銘文』では、

帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。
(「帰命」というのは阿弥陀仏の本願の仰せにしたがうという意味である。)

(『註釈版』六五一頁)

と示されているが、これは衆生の側(約生)から「命に帰する」という信心の意味で解釈されたものである。親鸞聖人は、このように「帰命」という一つの事態について、約仏と約生との両方の側から示されることにより、如来のよび声を聞くほかに衆生の信心はないという、他力の信心のありさまを明らかにされているのである。つまり、約仏というも約生というも、ともに信知すべき「救済の内容」であり、けっして対立するものではない。むしろ一つの事態を両方の側から説明することによって、「本願他力の救済」を明確にするものである。したがって約仏のない約生のみの視点、約生のない約仏のみの視点というのはあり得ない。
 ところが、このたびの冊子の序論①では、

約仏の視点としての「生死即涅槃」とは、仏の眼からご覧になれば「自他一如」として、仏と衆生との間には、何も隔てるものはない。相手のいのちに自らのいのちを見るのが、仏知見というもので、仏の無分別智から見れば、仏と衆生とは隔絶していない。それを衆生の側が、凡夫の虚妄分別によって生仏を隔絶して捉えてしまうのである。

とある。ここで万物を「一如」とみる仏のさとりについて「約仏の視点」という言葉を用いていることは、明らかな誤用である。一如とは、親鸞聖人が『唯信鈔文意』において、

いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如より……

(『註釈版』七〇九頁)

と説かれているように、心にも思うことができず、言葉にも表すことができないさとりの領域を指す。この領域においては、もはや「衆生」と「仏」という区別すら成り立たないのであり、したがって約仏も約生もない。これは仏と衆生が隔絶しているか否かという問題ではないのである。また、そもそも「生死即涅槃」と「自他一如」とは表わそうとしているものが異なるのであって、両者を結びつけること自体が問題である。
 さらに重要なことは、仏の智慧とは、けっして一如平等と見通すその面のみではないということである。仏のさとりとはかけ離れた、私たち苦悩の衆生一人一人の各別なるありさまを見通すまなざしも、また仏の智慧にほかならない。だからこそ如来は文字どおり、如より来生されるのである。親鸞聖人が『唯信鈔文意』に、

この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩は「尽十方無礙光如来」となづけたてまつりたまへり。

(『註釈版』七一〇頁)

と説かれるのは、このことを示しているのである。一如から凡夫のためにかたちを現わして法蔵菩薩と名のり、不可思議の本願を起こして阿弥陀如来となられたことは、仏のさとりとはかけ離れたこの私のありさまを見通されたからにほかならない。冊子の解説には、仏の智慧に関するこの重要な側面が決定的に欠落している。
 また序論には、

 時折、「領解は自己の信仰表明だから、約生であるべきだ」との意見も寄せられるが、「自己の信仰表明だから」こそ、約仏としての仏徳讃嘆もありうるであろう。

とある。この「領解は約生であるべきだ」という意見は、満井氏が「約仏としての仏徳讃嘆」という説明を繰り返すのに対して、「本来一つ」ということが仏にしか見通せないのであれば、それが現に苦悩のなかを生きている私たち凡夫の領解になろうはずがないという真摯で切実な訴えであろう。序論①では、「本来一つ」という箇所について満井氏自身が「我々が、この身この世において信知する内容としては(親鸞聖人は)説かれていない」と解説している。自らがまったく信知しえない内容が、なぜ「領解」すなわち「自己の信仰表明(み教えの受け取り)」となるのであろうか。序論では「本来一つゆえ」という一文について「約仏としての仏徳讃嘆」と述べているが、一如ならば約仏も約生もないのであり、いったい誰が何を讃嘆しているというのであろうか。これは明らかに「約仏」という言葉の誤用であり、そもそも自らに信知できない内容を讃歎するなどということはあり得ない。このような誤用は、宗門をさらに混乱させるものでしかない。(続く)

二〇二四年 四月二十四日
浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会

代表 深川 宣暢(勧学)
森田 眞円(勧学)
普賢 保之(勧学)
宇野 惠教(勧学)
内藤 昭文(司教)
安藤 光慈(司教)
楠  淳證(司教)
佐々木義英(司教)
東光 爾英(司教)
殿内  恒(司教)
武田  晋(司教)
藤丸  要(司教)
能仁 正顕(司教)
松尾 宣昭(司教)
福井 智行(司教)
井上 善幸(司教)
藤田 祥道(司教)
武田 一真(司教)
井上 見淳(司教)
他数名


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