赤い糸はスパイシーな香り 第16話
雅也が車椅子の生活になってから、私は仕事を調整して、介助にあてる時間を作るようにした。雅也は「自分でできるから大丈夫だ」って言ったけれど、『雅也が』ではなくて私がそうしたかったからだ。
私たちは住んでいたマンションを引き払い、雅也の実家へと引っ越した。あちこちリフォームして、バリアフリー化したのだ。
お仏壇こそないけれど、リビングには亡くなったお義母さんの写真を、フォトフレームに入れて飾っている。小さな一輪挿しに季節の草花を生けて、お菓子やお水をこまめに取り替えては、私は毎日お義母さんの笑顔に手を合わせている。
雅也のお母さんに初めて会ったのが高校三年生の春。雅也と付き合い始めた頃に一度だけ会ったことがある。とても綺麗で、スタイルも維持されていて四十代には見えなかった。それなのに夏を迎える頃には入院をして、時間を駆け抜けるように秋の終わりには他界してしまった。
もっとあの優しいお義母さんに教わりたいこともあったし、若かった頃の話なんかもしてみたかったのに……。
「おはよう、ほのちゃん……。僕、ずっと考えてたんだけど……」
「おはよう。どうしたの?」
いつになく真剣な眼差しで雅也は話し出した。
「僕たちには子どももいないし、これからの人生の方が長いし……。僕、大好きなほのちゃんには幸せでいてほしいんだ。だから……、別れよう……」
私の脳が『涙を流せ!』と叫んでいる。
「どうして……。どうしてそんなこと言うの?」
私の意志とは関係なく呼吸が乱れる。
「このままだと、僕はほのちゃんの人生を奪っちゃうよ」
雅也は子供のような口振りで言った……。私は嗚咽を繰り返しながら、声にならない声で、
「わからないことばっかりで大変だけど……、でも……、苦労なんて……、一度も思ったことないよ……。なのにどうして……。どうしてそんなこと言うのよ!」
吐き捨てるように言って、私はその場から逃げ出してしまった。
わかってる……。雅也が私のことを思って言ってくれていることくらい。でも……。
「お義父さん、ほのかです。今って少しお話できませんか?」
私は車の中に逃げ込み、お義父さんに電話をかけた。
「どうしたの? 急に……。店の方に来るかい?」
お義父さんに促されて、私は車を走らせた。私の気持ちに呼応するかのように少しずつ雨脚が強くなり、ワイパーで弾かれた雨粒が少しずつ私の胸の中に蓄積されていくように感じた。
お店の前に車を停めると、お義父さんが駆け寄ってきて運転席に傘を差し掛けてくれた。
「降ってきちゃったね。ほのかちゃんの涙雨かな?」
私は苦笑いで傘を受け取って、お店の中に小走りで入っていく。店先で傘を閉じ、ブルブルとそこに付いた水滴を落としていると、お義父さんが「雅也と喧嘩でもしたのか?」と背中越しに聞いてきた。そして「狭いけどその辺にでも掛けてくれ」と、緑色のシートが張られた丸椅子を指さした。
私が雅也に言われたことをお義父さんに話すと、お義父さんはポツリと呟くように言った。
「雅也がそんなことを……。ごめんな……」
「雅也くんの気持ちはよくわかるんです。本心で言ったんじゃないってことも、全部私のためだってことも。でもあまりにも突然で……」
「ほのかちゃん、あんたは本当に良くやってくれてる。事故からずっとだろ? 少し休んだ方がいいよ」
「そのお話をさせてもらおうと思っていたんです。私、ショックで家を飛び出してきてしまったので……。雅也くんのこと、お願いしても大丈夫でしょうか?」
「そんなのもちろんだよ。しばらくゆっくりするといい。のんびり羽根を伸ばすのもいいんじゃないか? この店のことなら何とかなるから心配しなくていいよ」
私の肩に手を置いて、お義父さんは優しく微笑んでくれた。
◆
「美咲、あのさー……」
「どうしたんだよ、今日は一段と暗いな」
「うん……」
私は美咲を呼び出して、いつものように愚痴を聞いてもらっている。テーブルに並べられたおつまみをぼんやりと眺めてみたり、水滴の付いたジョッキに指を這わせてみたり、心ここにあらずといったふうな私を見ながら、「雅也くんのこと?」と、美咲は私の顔を覗き込むように言った。
美咲は、グラスの底に沈んだ梅干しを箸でつつきながら、「別れようとでも言われたのか?」と口にした。私が顔を上げて美咲と視線がぶつかると、
「なんだよ、ドラマとかでよくあるやつじゃん。男ってどうしてそうなるのかねぇ。そんなの答えなんか決まってんのにな」
と苦笑いを浮かべながら、焼酎を一口喉の奥に流し込んだ。私が黙って美咲の顔を見つめると、一瞬驚くような表情を見せて、美咲は声を出した。
「おい! まさか別れるんじゃないだろうな?」
「そんなわけないじゃない!」
「黙ってるからビックリするじゃないか」
「なんかさぁ……、寂しかったんだよね。私は雅也のこと苦労だなんて思ってなかったのに、私の人生を奪っちゃうなんて言われてさぁ……」
「それだけほのかのことを大切に思ってるってことだろ? 愛しているからこそそんなふうに思っちゃうんじゃないのかなぁ」
「わかってるんだけどさぁ……」
「わかってるなら、悩んだりするのは違うと思うな。それはほのかのわがままだよ」
そう言う美咲の言葉に何も答えられないでいると、「いらっしゃい!」という大将の声に続いて「お疲れさん!」という声が私の背後から聞こえてきた。美咲が視線を上げて「お疲れさまです」と言った先に立っていたのはパパだった。
「じゃほのか、そういうことだから」
「そういうことって……」
「あたしが呼んだのよ。たまにはいいでしょ? それじゃ部長、お勘定はお願いしますね」
イタズラっぽく言って美咲は席を立った。おどおどと慌てている私を横目に、美咲は「ご馳走さまでした」と言って店の外へと小さくなっていった。
ビールのジョッキが運ばれてくると、
「安田さん、若い女性をとっかえひっかえ、羨ましいですな」
と大将が言葉を残していく。
「やだなあ大将、娘ですよ」
「えっ! 安田さん、こんなに大きな娘さんがいるんですか! 美咲ちゃんと何度か来てくれていたんですよ。娘さんだと知ってたならもっとサービスしたのに」
「僕にサービスしてくださいよ!」
パパはそう言って笑っていた。
「ほのかと二人で、こうやって飲める日が来るなんてな」
パパは嬉しそうに私のことを見ながら言った。私は言葉を選びながら、今朝起こった事実を告げた。「そうか……」パパは一言呟いてから「あいつも優しい男だな」と言って、ビールをゴクゴクと一気に飲み干した。
二杯目のビールと一緒に、大将が「これは俺からのサービスです」と、胡麻豆腐の小鉢を運んできた。パパは「大将、なんか催促したみたいですみませんねぇ」と、ニコニコしながら小鉢に箸をつけた。
「雅也くんなあ、パパの若い頃に似てるんだ。真っすぐで、曲がったことが嫌いで、自分のことは後回しで、いつも相手のことを考えてる」
「だからこっちはイライラするんだけどね」
私がそんなふうに言うと、パパはフッと鼻で笑いながらタバコに火をつけた。
「パパとママって、あんまり仲良くないよね?」
私はずっと前から気になっていたことを口にした。それこそ中学生の頃から思っていたこと。パパは一つ大きなため息をついてから、呟くように話しだした。
「そうだな……。いろいろあってな。ママと心が通わなくなっちゃったんだよ。会話も減ったしな」
「いろいろって?」
「いろいろだよ、いろいろ。今はまだ話したくないんだ。そのうち話すよ」
腑に落ちない部分はあるけれど、パパの言葉を信じてそれ以上は聞かないでおこうと思った。
「なあほのか、雅也くんと二人でちゃんとやっていけそうか?」
「私ね、今こうして雅也の介助とかしながら生活してるでしょ? そりゃ一人じゃ大変なこともたくさんあるよ。でもね、雅也が生きててくれて本当に良かったって思ってるの。もちろん介助は大変だよ。でもね、私は雅也のことが大好きで、卒業してからも遠距離で、他の人に目移りすることなく、ずっと雅也だけを見てきたの。だから、きっとこうなることも、雅也を好きになった時から決まってたんじゃないかって思うの。試練だとか思ったことはないけど、運命みたいなものなのかもって」
『運命』という言葉に反応して、パパは顔を上げてじっと私の眼を見つめた。そしてゆっくりと眼を伏せた。
「ほのか……、すまんな……」
そう言ったパパが、洟を啜りながら顔を上げると、その眼には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「えっ? なに? どうしたのよパパ」
「いや、何でもないんだ。それより今夜は何もかも忘れて飲もうや! 大将! 焼酎、ボトルでくれないか」
「あいよー!」
驚く私の心を置き去りにしたままで、店の中には大将の声が響いていた。
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