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恋愛、不倫、読書

先日、あるアーティストが自身のブログに書き綴った日記を書籍化したものを読んだ。著者は女性で、夫も著名人であり、日記を書いていた当時未就学の娘2人がいた。内容は主に家族のこと、家族がいるために思うようにいかない仕事や人間関係のことだった。著者は夫とは別に「好きな人」がいたことを明かしており、その「好きな人」とは、主に著者が既婚であることが要因で関係が行き詰まっていることも赤裸々に書かれている。夫には好きな人の存在も明かしており、何度か離婚を打診したものの、夫からは「おれのことが嫌いなのは構わないけど、せめて娘らが就学し、事を理解できる年齢になってから」と諫められていたようだった。かといって著者は夫を嫌いになったわけではなく、とにかく「離婚」の事実が欲しい、籍を抜いたうえで、娘の就学までは同居も続けると主張していたようだ。

「妻に好きな人がいる事実を受け入れてくれるような人間は○○(夫)くらいだろう」みたいなことが書かれているのを読んだとき、私は無性に腹が立った。こんな人の書くものを読んで、時間の無駄ではないかとも思った。しかし一方では、この腹立ちに正当性があるのか?と考えた。普通に考えればこれらの人間関係に全く無関係の第三者である私がこのように腹を立てる理由は、「既婚者であり母でありながら家庭外に恋人を作り、悪びれもせずにそれを公表するなんて、なんて無責任で恥ずべき人間なんだ、けしからん」ということなのだと思う。まあ家父長制的だし、お節介だ。

恥を忍んで書くが、はじめに該当の箇所を読んだとき私は、Twitterで「(著者名) 不倫」とか「(著者名) 毒親」とか調べて、このことについて否定的な意見を書き込んでいる人がどのくらいいるのか知ろうとした。できればたくさんいますようにと思いながら。自分の悪意を代弁してくれる人を見つけて鬱憤を晴らすためだけの行為であり、悪意が無関係の人間に向いているぶん不倫よりもずっとあさましい。そうして見つけた投稿を読んでは後ろ暗い満足を得、その後にようやく「何がこんなにむかつくんだろう?」と思ったのだった。

正直にいえば私は、著者の状況が痛いほどわかった。思えば思春期の頃からずっと恋愛体質で、とにかくいつも好きな人がいて、好きな人のことばかり考えていた。決まった恋人がいるときに別の人を好きになったこともあるし、別れる決心がつかないままその人と関係を持ったこともある。好きな人との恋愛に浮かれて一方的に恋人に別れを告げその日のうちに好きな人と家で過ごしていたら、数時間前に別れを告げた恋人が訪ねてきてしまいあわや修羅場となったことも、ある。とにかく「決まった人がいるのに別の人を好きになるなんてけしからん」みたいなことを他人に思う資格はまったくないのである。

にもかかわらず、というかだからこそ、というか、私はその状況に共感性羞恥にも似た感情、そしてそれから派生した怒りを覚えたのだった。恋愛は過激だ。実際著者も、「好きな人」が夜中に激して著者家族の住むマンションまできてしまい、刃傷沙汰になりかけたことも書いている。長年連れ添ったパートナーとは年月に見合った信頼関係が築かれ、恋の始まりのように感情が激することはあまりない。それ故にその関係の外に現れた「好きな人」は特別で、その人のことばかり考えてしまう。パートナーとの関係も唯一無二であるが、そのことはなかなか意識されない。ここに書かれたことはごくごくありふれたことであるが、渦中の人間は真剣で、外部の人間はどうしても冷めた目で見てしまう。

そのような恋愛のさなかにない時、「不倫をするような人間は~」で始まる断定口調の正論はとても気持ちのいいものだ。特に”不倫自体が不誠実なのだから、その恋愛の純真さをいかに論じようとも前提が破綻している”というような主張はもっともらしく、受け入れやすい。不倫は悪で、恋愛中の人間は自己中心的で盲目で愚かだ。だから、「家族を本当に大事に思っているなら不倫なんてするはずがないので、よそに好きな人がいることを認めている時点で家族のことは大事ではないのだ」という主張は、「不倫」という一般的に悪とされていることをしている側の人間の口を塞ぎやすい。でも、誰かを激烈に好きになった時、その感情が止めようのないものであることも、多くの人は知っているはずである。

著者が夫を嫌っていないこと、家族としてリスペクトしていることはおそらく本当だと思う。よそに「好きな人」がいるからといって家族を大事に思っていないわけでもないだろう。この複雑さが辛いのだ。どっちの気持ちも本当で、しかし現実に両立するのは難しい。この複雑さは紛れもなく真なのに、複雑さを無視した方が楽だから、単純化した正論を支持してしまうのだ。私の怒りはこのような「逃げ」のもとにあった。

そのうえで今一度この本に書かれている出来事について考えてみる。最初に読んだ時のような怒りはもうない。ただただ切実で苦しい現実だけがある。

私が読書をする理由のひとつに「魂のかたちを分かりたい」というのがあり、救いがなくても、答えがなくても、辛くても、(もちろんその逆でも、)人間という存在がどのように複雑で矛盾しているのか、そのありのままを知りたいというような感じ。だからはじめに「けしからん」と思ったところからここまでたどり着いて、「魂のかたち」を少しだけ感じることができてよかったのだと思う。

(言及している本について、読んだことのある人は見当がついているかもしれませんが、もし知りたい方がいればTwitterの方でDMか何かくださればと思います)


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