共有

今回は

「演じる側とお客さんは常に同時に、その空間と時間を共有する、それを認めなくては。」

っていうお話です。「なにそれ」って感じですよね・・・

しかし、過去2回の記事と合わせて、つくづく演劇というものの

「観る人と観られる人が同時に同じ場所にいる」

ことの凄さ、素晴らしさについて考えさせられます。

こういう時期ということもあってさらに。

はじめに


 さて、前回の記事では

表現が観ている人に伝わってるのかを確認しちゃう事の弊害として、「今 ここ」に居られなくなってしまう

という話を書きました。

今回は更に、

なぜそんな風に逐一確認しちゃうのか?

その不安は何処からくるのか?

ということを考えてみました。

私の場合の原因は

「やっている自分でいたい」

っていう思いが大いにあるなと思いました。

説明できるかな・・


変化が怖い


 ええと、やはりここでも「今 ここ」 「Now here」の考え方が出てくるんですが、

お芝居ってお客さんと演じる側が時間と場所を共有して成り立つ芸術だと思います。

私たちの「演技」とお客さんの「観る」という行為は、流れていく時間とともに、常に同時に行われています。

これも、読んでる方は「何を当たり前な事を」って思われてるでしょうね、そうですよね・・

でもね、この事実って意外に怖いんですよ、少なくとも僕にとっては、「流れていく時間に我が身を晒す」ってことが。

本番が(あるいは稽古中でも、そのシーンが)始まったら、ただただその時間と空間を生きてゆくわけですね。

そこでは「止まってる」ということは絶対になくて、例え動いていなくても「何か」が一瞬一瞬、常に変化し続けているわけです。

私はね

それが恐い

つまり

変化が恐い

「このままでいたい」
「確かなものを手にしていたい」

そんなことはあり得ないのに


怖い時、何をしてしまうか


 解りやすいかわからないけど一応例えておくと・・・

将棋って自分の番が来たら「絶対に」駒を動かさなきゃいけないじゃないですか。コレ、相手だけそのルールで、自分は番が来ても動かさなくても良いってなったらメチャ強ですよね。

私ね、舞台上でそういうことやりたがるんですよ、出来もしないのに。

結果、「やってる感」が出る。

流れる時間に身を晒せず、それによって本来もつ変化のダイナミズムも表現できない。

自分の頭の中で未来を組み立てながら

「私今こうやってるんですよー。相手がこう来るので、次はこういうことしますよー」

とシナリオ通りにやって

「うーん、さっきのは~~だったな」

と演技中に過去を振り返り、そして未来を組み立てる。この繰り返し。

自分の演技を「自分のモノ」として手離さず、人と共有しないまま。

安心でしょ?間違えようもなさそうだし、話も解りやすそう。


表現すること


 でも、これ、観る必要ありますかね?

私がお客さんなら、べつにそれは観なくてもいい表現です。

やはり、

「今、ここ」

で何が起きているか?

それを、その瞬間瞬間を共有したい。観客としても舞台に居る者としても。

もちろん脚本もあるし、動きもある程度稽古するわけです。が、それは舞台上で起きる事件の数々を、決まりきった規定路線を完成させるためではなく、そのシーン、作品の「可能性と想像力を広げる」ために、狭めるのではなく広げるため。そのための稽古にしなくては、と思います。

表現者も観る側も時間と空間を共有する当事者として、「この瞬間、この場所」で起きる事を経験する。

次に何が起きるのか、ある意味では俺にも分からない

くらいのところまでいきたい。

というお話でした。

その為には、刻々と変化することに耐えうる身体、というか、その変化を許せる身体が必要だと思っています。

その事についてはまた書きます!

最後まで読んでいただきありがとうございます。 楽しんでいただけましたなら幸いです。