谷戸亮太

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谷戸亮太

やとりょうた 俳優 お仕事のご依頼、お問い合わせは ryotayato.info@gmail.com

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谷戸亮太(やとりょうた) 1983年12月2日生まれ 山梨県出身 俳優 主な出演作に、演劇ユニット「艶∞ポリス」の作品、る・ひまわり×明治座「年末シリーズ」、舞台「銀河英雄伝説Die Neue These」シリーズ、舞台「上にいきたくないデパート」「最遊記歌劇伝-異聞-」「學蘭歌劇『帝一の國』」シリーズ等。作・演出や一人芝居、落語などの経験もあり、近年では映像作品にも活躍の場を広げている。 2019年イギリス・オークニー諸島にてワークショップ「リンクレイターヴォ

    • 常に認識のそとがわにある予感

      10〜12月にかけて、幼稚園の劇の発表会をお手伝いするお仕事をやっておりました。まず、演劇に関わるお仕事があるっていうだけで大変嬉しい、ありがたいことですよね。そこに金銭的価値を見出してお給金頂けるわけですから、こんなにありがたいことはないです。いくら感謝しても足りないくらい。 今回はその期間の中で気づいたことなどをいくつか書きたいと思います。(この時点では「いくつか」と書いたけど、ワンテーマで長くなりすぎた…) 子どもたちと接していて、先生方だけでなく、自分も、ともする

      • 「『気づき』のレッスン」長めの宣伝

        「稽古は本番のように」といわれますが、多くの人にとって「見られる」というのはやはり非常事態ですよね、たとえそれが稽古といえど。もちろんその、「見られる」という状況の中で耕せる感性、他者を介して見出される感性、他者とともに生み出される感性もあります。しかし、不安や緊張などによって、見られる環境や、他者とともにいる環境におかれると、それらの感性を無意識に閉ざしてしまう、蓋をしてしまう場合が多くあるように思います。で、そういう蓋をした感性、無意識下に閉ざされた感性を開放させるものと

        • 【谷戸亮太の「気づき」のレッスン】の宣伝

          今回書きたいのは、演劇教育的なことなんですけど やっぱり、その、もう舞台に「パッ」と立った時の感じをスタートラインとして規定している感じがして。そこを前提として、どう諸々積み上げていくか?みたいになってる感じがするんですけど、自分はその「前提」「スタートライン」のあり方にかな〜り懐疑的なんですね。舞台に立つ前の色々をもうちょっとやっとかないと、立った後に学べること、受け取れることが著しく減少しちゃわない?っていう。 それは教師⇔生徒の世代間的なギャップなのか、教師がその生

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          雑感

          ちょっとTwitter(X)に書くにはあまりにもだと思ったのでnoteに書く。 自分が思うのは、正直に言って、多くの舞台・映像作品において、俳優の創造性は十分に発揮されていない。あるいは、歪んだかたちで発揮「させられて」いることが多い。もちろん俳優の、というかその芸術に関わる全ての人の創造性を尊重するプロダクションもあるが、多くの場で健全なあり方での俳優の創造性は必要とされていない。現状、俳優の創造性は、日本の多くの作品にとって、「必要条件」ではない。 創造の現場で直接

          公演終わりの雑感

          えー、大変ご無沙汰してすみません、ヤトです。 まずは、もう一ヶ月も経ってしまいましたが、出演した舞台、あやめ十八「六英花 朽葉」が無事に終了しました。どなた様もありがとうございました。 なんというか、この一ヶ月、ずっと考えていたのが この公演での自分の演技と、これまで自分が探究していた色々とがどう関係しているのか? ということです。 なんかね、ぶっちゃけ「なんかオレたくさん色々勉強してきたけど、全然実際の稽古・本番ってなったら、今までやってきたことって何の役にも立っ

          公演終わりの雑感

          演劇フィールドワークでの気づき

          演劇についてのお話しを聞くフィールドワークで感じたこと。 やっぱり、演劇を取り巻く状況が「事前に想定されたプロダクトを、いかに本番の日程に『間に合う』よう製作出来るか?」みたいなところにリソースが割かれ過ぎていて。まあ、それはある部分においては全然正しいのだが…それ「だけ」になってしまうと創造に関わる個人の体験みたいなことが痩せ細っていく感覚があります。なんて〜か、稽古場は演劇を作る工場で、創造に関わる人達は演劇を作るマシーン、みたいな。その効率化?効率的?っぽい製作状況の

          演劇フィールドワークでの気づき

          「やとってなにを勉強してるの?」という問いについて

          「ヤトは元来ひょうきんものなのに最近は小難しいツイートしたりして、しかも地頭がそこまでなのに難しいこと説明しようとしてて全然わかんない。」 みたいな空気をひしひしと感じたり、自分でも「な〜にやってんだかっ」みたいな感じになる、なります。で、気づいた 俺が無理して言葉にしなくてもいいや、先人たちのありがた〜いお言葉が沢山あるのでそれを引用、拝借させて頂こう というアイデアに。ので、最近はWSでもプリント配ったりしてる。 で、まあ、ヤトの演劇研究は細かくは多岐に渡っており

          「やとってなにを勉強してるの?」という問いについて

          こらだ 〜「閉じ」と「開き」〜

          他者に対して揶揄みたいに「自他の境界線が曖昧w」みたいに発せられる言葉を見聞きすると結構つらくなる。 多分それは当事者にしてみたら死活問題なんだ、ということが肌感覚でわかるからだな〜と思った。 東畑開人さん著の「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」に中井久夫先生のお言葉が引用されていた ここれを読んで思ったのは、自他の境界が曖昧になる前にまず、こころとからだの境界が曖昧になるんだという気づき。確かに、なるわ。 新鮮なのは「他者に開かれる」という言葉がネガテ

          こらだ 〜「閉じ」と「開き」〜

          関わり方とその可能性について

          とは言いつつ、自分は、芸術のことなど何もわかってない。彼女にその素晴らしさを伝えたいと思っても、言葉も上手く出てこない、わかりやすく話せない。 マネタイズの事ももちろんすごく大事だし、そこに行き詰まりを感じると、何もかもが苦しくなる。生活の質も思考すらもジリ貧になり追い詰められる感覚に陥る。 彼女は自分に対して、すごく責任をもっている。この世界に頼れる人はいないかのように、誰かに「貸し」をつくることは罪深いことであるかのように。 「自分は全てに納得し、次に進もうとしてい

          関わり方とその可能性について

          芸術について

          芸術について なんか、別に芸術はいたるところにあるし、変に高尚ぶりたいわけでも「意識高w」とか言って嘲笑したいわけでもない。 自らの行う事、そこに美しさを見出したい。し、美を目指したい。それは「カワイイ〜」なのかもしれないし「すげーおもしれえ」なのかもしれないし「人間って…」という深遠な問いかもしれない。 シンプルにそういうところを目指したいし、そういうことを目指す自分、そういうことを言う自分を変に卑下したくない(「すんませんね、『芸術』なんて語って…」みたいな仕草した

          芸術について

          安心についての覚え書き

           いよいよ明日開催となりましたワークショップ。 なぜ「自分の中に安心をつくる」ことが大事だと私が思っているのか?を。  芸術は社会と大きく関わっていると同時に、社会に対しての治外法権的な面があると思っています。 殺伐さや、弱肉強食さがあるこの社会の、セーフスペースとなれる可能性が、芸術の、創造の現場にはあると、私は思います。 今になって思えば、私が演劇を志したのは、無意識的にそういったセーフスペース的な側面に惹かれたからだと感じています。  ただ、実際に演劇を始めてみて分か

          安心についての覚え書き

          コミュニケーションのまなび

          大学で、演劇を用いた他者とのコミュニケーションを学ぶ授業に非常勤講師として1年間参加した。 以下はそこでの覚え書き。 年長者が若者に対して「コミュニケーション能力がない」と評価を下すのは、あんまり正確ではないんじゃないか?と思っている。 あ、いや、そこまでは譲ってもいいかも。 年長者が求める「コミュニケーション」の型を若者が習得していない、という文脈なのであれば、それはそうかもしれない。 ただ、若者が「何も考えていない」というのは絶対違うよね。 考えてないわけないもの。 この

          コミュニケーションのまなび

          感情表現について

          例によってTwitterに書いた考察が長くなりそうだったのでこちらnoteで記事にします。 一応断っておきますと、「感情表現=悪」なんてことは全然思ってないです。歌舞伎の見せ場もダンスも感情・パッションから生まれたものだと思いますので。藝として素晴らしいものだと思います。 うーん、つまりですね、(おそらく日本において)表現・芸術が「感情を観る場」として機能してる面、そういうのがなんか強過ぎるのかも。で、その方向性で広く多くの人に対象が向かうと、邦画の予告編みたいな「叫ぶ」

          感情表現について

          感情が発露する(可能性のある)身体

          「感情は結果」である。という主旨の記事を書きました。 その通りだと思うのです。結果を「やろう」としてはいけない、感情を「出そう」としてはいけない。それらは目的を持って行動した「結果」として現れる。  が、一方で、「その感情が発露する可能性のある身体じゃないと、どんなに行動しても厳しいだろうな〜」とも思ってます。その身体の状態を実現するために、みんな色んな努力をしてるわけですね。 まず「稽古場を恐怖(と不安)が支配している」と、まあ、まず無理でしょうね。その状態で、演じる

          感情が発露する(可能性のある)身体

          感情は結果

          「感情は結果」ってよく言われませんか?あれ、ホントにそうだなって思います。どうも稽古時間の少なさが影響して皆が「早くシーンをつくらなきゃ」病に冒されているのか、「感情」という結果さえも先取りしちゃってる感じの芝居が多い印象です。「感動するシーンだし『泣く』のがゴールだな」みたいな。いや、決めつけ早いよ!と思います。だし、「いや、俺そんなこと思ってね~し!」という方も、「無意識」にそういうシーンの造り方になってないか、よ〜く考えてみてほしい、かくいう私は!よくそうなりがちです!

          感情は結果