じゃんけん

このご時世、誰かにイチャモンをつけたければ、後出しジャンケンをすればいい。

何の分野においても、これだけ情報が溢れてるのだから、揚げ足をとるのも、論破するのも、まったく難しいことじゃない。

先に論破してくれた誰かに乗じるのはなおさら簡単。それっぽく同意しておくだけで「スタンス」が取れる。


反対に、アクションを起こして、自ら動いて、発信して、そうやって勇敢にジャンケンに挑めば、後出しには必ず負けてしまう。

いまの世界で「隙がひとつもないもの」なんて存在しないから。(それは論破に価値がないことを示しているようにも思うけど)

僕たちは(僕たちが生み出すものは)ほとんどが未完で、落ち度があり、欠陥があり、ちっとも正しくない。


だから沢山の人たちが沈黙を選ぶ。

時間を稼いで、経過を観察して、それでも気に食わない相手には、どこかで見つけた「正しい情報」を引っ張って、盛大な後出しをお見舞いすればいい。

そうしているうちは、自分が打ちのめされることも、派手に負け越すこともない。

とても賢明で、間違いのない一手だと思う。



ちなみに僕自身も、よく「沈黙」を選ぶ。(後出しは選ばないと思っているけど、どうだろう)

出来ればアクションを起こせる人でいたいけれど、自分から動くこと、それを発信することは、「もっと詳しい人」や「対立意見の人」、あるいは「なんか僕のことが気に食わない人」に挨拶しているようなもので、それなりの覚悟と助走が必要だったりする。

自分はなんにも分かっていません、と宣言しにいくようなものだ。

けれど最近、未完であることも、欠陥があることも重々承知で、それでも先出しでジャンケンをしたいと思うようになった。

褒められる、けなされる、認められる、馬鹿にされる。

それら全てが人生のごくごく一部であり、ひとつのジャンケンを巡るあれこれに過ぎない。つまりそれは「僕そのもの」ではない。

自分さえ自分が何者なのか分からないのだから、他の誰かに正確に分かるわけがないだろう。僕が分かるのは、僕が誰を(なにを)大切にしたいと思っているかだけで、自分が何者かではない。

僕は田無市で産まれた男の子に過ぎない。どこまでいっても。


たとえば、そうやって勇敢にジャンケンをして、それが「先出し」になったとしても、負けない方法がひとつだけあるとすれば

それは「すぐに次の場所でじゃんけんを始めてしまうこと」なのかもしれない。

手が出てこないなら、相手が後出しの手を画策しているなら、あるいは自分がそのことについて「本当に」もっと知りたいのなら、次の場所で新しい相手とジャンケンを始めてしまえばいい。

渾身の後出しで論破できるはずだったあいつは、どこかでもう、新しいことを学んでいる。


ちなみに。

仮にすべてがプロレスで、その熱意さえパフォーマンスなら、後出しでも先出しでも、大して変わらない。

でも「本当に」知りたいことがあるなら、叶えたいことがあるなら、大切にしたい人たちがいるなら、未完であり無知であること以上に必要な資格はない。

とにかく手を出すこと。やってみること。

比較じゃなくて、勝ち負けじゃなくて、まずは自分で、自分の手を出すんだよ。



と、いうことで、「noteを継続して定期的に書いてみようかな」と言いたかっただけの、長い長い選手宣誓でした。

おやすみなさい。







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