どうして学校って行かないといけないの?(2)

このnoteは、前の記事からの続きです。思ったより長文になってしまいました。前の記事はこちら:

はい、で、今の「教育方針」に対して僕は矛盾を感じて、こう思ったという話をしていました:

今の小学校の先生って、ただの無理ゲーやらされてね? って。

だって、僕が子供の頃と同じような授業の形態をとりながら、それぞれの子供の個性・多様性を認めつつ、自主性を重んじる、ってそんな簡単なことには思えなくないですか

実際、前の記事で書いたように、今の「授業中」の姿を見て、僕はこれは学級崩壊だ、って思ったんですよ。それくらい、それぞれの子供たちが、先生の話を聞いているのか聞いていないのか、わからない。なのに、さらに不思議なことに、それが当たり前のように授業が進行していく。でも、それは個性や自主性を重んじる教育になったから、当然のことなのだそうです。

一応、断っておきたいのですが、ADHDその他の発達障害の子、貧困家庭、性に関する障害を持つ子、精神・神経障害の子、慢性疾患を抱えている子どもたちが意外と多い(増えている?)し、その子たちも、そうでない子も含めてそれらを一人ひとりの「個性」として尊重して、無理をさせていない、というのは、本当に素晴らしいと思うんです。親になったからこそ分かる。自分の子どもを認めてもらえるということがどれだけ嬉しいか。自分の子どもも受け止めてもらえるということがどれほど助かるか。本当にありがたいし、教育現場にいる先生たちの努力には心から感謝し、敬服します。

そのうちに、いつかタイミングでカミングアウトすると思いますが、僕自身、ある病気を抱えているけど、一部の投資家の方々と話をする際に、やっぱりフェアに情報を共有しなきゃいけない、と思い、病気のことを決心して伝えたところ、「いや、事業に支障ないなら別に気にしませんよ」と言ってもらえたことで、どれだけ救われたか。それを受け止めてもらえるということがどれだけ助かるか、嬉しいか、自身の体験としても知っているので、なおさらなんです。

ただ、投資家の方々のように柔軟な立場である方はまだしも、義務教育の課程として、一定の教育を提供する立場にある小学校の先生方は、自分で柔軟にやり方を変えるにも限度があるはずです。色々と縛られているから。

加えて、最近はモンペ(モンスターペアレント)の増加や体罰・ハラスメントへの批判と禁止、個人情報保護の厳格化、デジタル教育や英語の導入(ダンスの導入ってのもありますね)、などなど、言い出したらキリがないほど昔の先生たちよりも、やらなければならないことが増えているはず。

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実はここ40年、50年くらいで日本にはものすごい環境変化があり、それにも関わらず、その変化に対する対応は現場が中心になって行われている。

確かに、昔に比べれば子どもの人数も減ったから、先生一人当たりの担当人数も減っているのかも知れないけど、上に書いた通り、たくさんの「To Do」が増えてきたおかげで、教育対象者の量は減っても要求される質は劇的に上がっていると思うんです。

そんな状況を考えれば考えるほど、思うんです。

先生だって人間です。上に書いたような、たくさんの状況に全てうまく対応して、個性を重んじてって、先生一人だけでできるような話ではないんじゃないかと。

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少なくとも、僕が先生だったらムリと思います。「いえ、だからそのために昔はなかったカウンセラーという専門職ができたり、特別支援学級を作ったり、様々な対応してます」って反論する人がいるかも知れないけど、それによって根本的な課題解決なり目標達成なりができているか、は別問題と思うんです。

だって、地域の子どもたちを朝から同じ場所に集めて、一定の時間拘束し、その時間内に一定の教育サービスを提供する、っていう形態自体は、もう何十年も変わってないんですよ。そこに環境変化に対応したオプションメニューが追加されただけ。だから、教育形態の根本は変わっていない。もちろん、その何十年も前、義務教育としての上に書いたような形態は(一定の場所に一定の時間拘束して...云々)それなりの意味があったでしょう。おそらく、貧しかった子どもに栄養を与える意味での給食という仕組みも合理的な方法だったでしょう。

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でも、時代は変わった。だから教育方針も変わった。では、どうして学校という形態は変わっていないのか

ていうか、そもそも、この形態って大人の都合のために作り出されたものですよね?

自由主義経済の中で、大人は働かないと生きていくことが出来ない。ただ、子どもを働かせては、その子どもの将来に過去に遡った再出発というハンデを背負わせることになる(今では国際人権法があり、中でも子供の権利条約は日本も批准してますし、子どもは労働させるべきでない)。子どもの将来のためには、むしろ教育を与えたい、だが、親である自分たちでできることには限界がある。だから専門的に子どもに教育をできる人たちがいればありがたい。大人が子供の教育に束縛される時間が減るから。だからこその義務教育であり、

それを合理的に実現する形態が現在の学校の姿

だったんですよね? それはそれで良かった。当時は。大人にとっては。

でもねえ、そうやって、一見、合理的な形態がいったん出来上がってしまうと、環境が大きく変わろうが現場が苦しもうが、思考停止に陥って「変える」ということが出来なくなる、ってところが「制度」というシステムの怖さなんです。なぜか? 考えない方がラクだから。ちょっとでも変えるとハレーションが起きて必ず反対者が現れるから。とりあえず、前の世代の人と同じように維持しておけば無難だから。自分の世代が責められることはないから。「常識だ」と言っておけば逃げられるから。出る杭は打たれるから。

こうして、ありとあらゆる「**制度」でそういう経年劣化が起きる。もちろん、「教育制度」も同じ。こんなに大人だって大変な進化を求められている時代(もちろん、多様性の許容、ICTの熟達(DXとか言われる)、多言語対応・多文化共生とか含めてですよ)に、自分ですら、ろくすっぽ出来てないのに、「これからの教育はこうしよう」とか、どの口が言ってるんでしょう? 

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まして、その方針を受けて、教育サービスを提供しなければならないのは、その教育方針を決める人々ではなくて、現場の先生なんですよ。これ、会社で言ったら、上司に無理難題を押し付けられて、でも評価が怖いから部下は何も言えない、「優越的地位の濫用」に等しいことかも知れませんよ。もっと簡単に言うと、パワハラです。

....さてさてさーて、1回目の記事よりずいぶん過激な内容になってきました。ちょっと文字量が多くなりすぎて来たので、今回はここまでで、次回に続く、とします。

ではまた! 明日も良い日でありますように!



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