見出し画像

ベリーショートトリップ〜たまにどこかに行っている〜


18 春立ちて天狗に出会ふ(つづきのつづき)


一週間後、版画の下絵があがり、無心で板を彫っていた。
彫り作業は、何も考えずに、ただ手を動かし、木板に没入する。
机にかがみながら5時間ほど彫り続けると、首から肩腰がバキバキに硬直し、翌日にはひどい頭痛が起こる。像が現れるまでかなり時間を要するため、彫っている最中は自分が今何をしているのかわからない、そんな状態になっている。
3時間ぐらいを超えた頃、首が下向きに硬直したまま起こせなくなって我にかえった。彫りに夢中になっている間、まさに夢の中のように、一週間前の山での出来事を脳内で再体験していた。

          ●

「ふでいち」のおばちゃんに明日また来ると言って帰った夜、その山のことを調べてみた。「どうじょう山」は「道場山」と書くらしい。幾つか連なった峰の一つであり、本峰は夫婦岩という名称で知られているようだ。道場山は単体の山の名前ではなく、噴火してできた岩の峰を指しており、地図には道場岩と記されている。夫婦岩と道場岩は尾根で繋がっていて一帯は長い岩陵断崖を形成している。そこは霊山層と呼ばれる約2000万年前に噴出した凝灰角れき岩の山で、山頂部には風化して出来たイボイボ状の奇岩がいくつも点在しているらしい。南麓から登る夫婦岩へは登山道が整理されているが、反対側の道場岩へのルートはやはり見当たらず、情報も少ない。標高は夫婦岩が572m、道場岩が507mとある。「ふでいち」がある筆甫の平地が標高300mぐらいであるとして、そこから200mであるから大した高さではない。1時間もかからないだろうと踏んだ。

          ●

翌日朝8時に家を出て、再度筆甫に向かった。
昨日よりも気温が高く、晴れていたが、風が強かった。
10時前に「ふでいち」に着くと昨日のおばちゃんがいた。
「来ました」
「あら〜。」
少し間をおいて
「天気良くてよかったね」
と別に登ることについて何も気にも止めない様子である。
味噌おにぎり二個と、チョコレートと水をレジに持っていく。一人で登ることだし、道がないというから、それなりの装備は必要かと思ったが、昨日の話だと仰々しく登山というものでもない感じだった。リュックにはスケッチ帳と筆入れ、それに草刈り鎌しか入っていない。しかし、山はなめてはいけないと思い、おばちゃんに「万が一の時はここに連絡してください」とメモ紙に名前と連絡先を書いて渡そうとした。が、おばちゃんはそっけなく「じゃあ頑張ってね〜」と品物の入ったビニール袋を差し出した。その目線はすでどこかあっちの方を向いている。私は少し恥ずかしくなり、ポケットにメモ帳をしまい込んだ。
無言で食料をリュックに詰め込み、
「じゃ行ってきます」と一言告げ店を出た。

          ●

昨日案内された登り口につづく道の脇に車を止め、メモ書きに携帯番号を書き「今、道場山に登っております↑」と加えてダッシュボードの上に置いた。
昨日おんつあんが言った「こっから」の方へ足を進める。草刈り鎌を手に、薮をかき分けながら道を切り開き登っていく。しかし、傾斜が急で早くも数十メートル進んでのち、壁面が現れた。
(どこに道があるんだ?)
壁面に沿って平行に進むが、全く登れるようなところがない。そうしているうちにすでに30分ほど経過していた。
まだ昼間前だが、風が強く、天気がどうなるかわからない。
一度引き返し、おんつあんが言っていた「あっつのほう」から登るしかない。しかし、「あっつのほう」も「どっつ?」のことだよくわからない。
ともかく、今は耕作されていない200坪ほどある畑の畦を通って、おんつあんが指した「あっつのほう」へ行ってみる。
「この反対側さでなければ大丈夫だから」と言っていたのは山襞のくぼみのことを言っているらしく、その起状に沿ってい行けば上に通じるということらしい。一部、赤土が背骨のように突き出し、上に通じているところを見つけた。その細い経路をたどって行くと幅1mほどの錆はてたレールが現れた。昔、木材を運び出す時に使ったものだろう。レールに沿いながら上を目指した。しかしすぐにレールは枯葉に埋もれ見えなくなった。そこから薮がまた深くなり、登りがきつくなった。気温は上がり、日向は汗ばむくらいだが、日陰に入ると急に冷気が差し込む。息が上がる。
一歩一歩鎌で薮を掻き分けながら上を目指した。枯葉の下はぬめり気があり、何度も薮で手を擦り切らしながら、足を滑らし、数メートル下へずり落ちた。30分しても一向に進まない。峰の岩肌は全く見えてこず、まだ半分も登っていないようだ。
鎌を振り払っては一歩。そして、薮を手で掴みながら、次の一歩。よじ登るように斜面を上がる。途中でその動作を止めるとまた滑り落ちかねない。必死にその動きを繰り返すしかなかった。さらに、息が上がる。肺に冷たい空気が突き刺さるように入ってきた。

次の瞬間、誰かに口を塞がれたように、突如息ができなくなった。酸欠を起こしたのだ。全身を斜面に投げ出し、そのまままた数メートル滑落。ほんの一瞬ではあったが気を失った。散漫な意識の中で、轟々と吹き荒れる風にギシギシと木が揺れて軋む音が聞こえた。心臓がドクドクと激しく鼓動を打っている。

その時だった。どこからともなく
(あーはっはっはっはー)
という声が聞こえてきた。
一度目は人の声に聞こえた。
(おおうーほっうーほううーほううー)
二度目、それは犬の遠吠えににも似た鳴き声に聞こえた。
(おーおああーおおーあああーーっほーひゅーひゃー)
三度目、それは頭の中で鳴り響いているのか、上空から聞こえてくるのかわからない。風の音に打ち消されながら、山のあちこちへ反響していくようだった。
やがて意識がはっきりし、息も少しずつ戻ってきた。
吹き出した汗が風で冷やされ寒気をもよおした。
気がつくとジーパンはどろだらけ、ライトダウンは擦り切れ、手袋を忘れた素手は血に塗れていた。

(クッソー!!)

(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?