ベリーショートトリップ〜たまにどこかに行っている〜

46 ベリーショートトランス 11

月末の退去を決めた2月中ごろ。近所へ挨拶回りをした。
ご近所はそれほど親密ではなく、時折お互いを気にかけながらたまに挨拶を交わすぐらいだったが、8年間それとなくお世話になり、商店街にある老舗の和菓屋で最中を買って配って歩いた。

まず、後ろの同じ借家のOさん宅。高齢の母親と40代の娘、そして、障害を抱えている息子の3人で住んでいる。生活保護世帯で、娘さんが一家を支えている。高齢の母親の方は足が悪くすっかり見えなくなったが、時折出窓から顔を出して、日向ぼっこをしている。借家だが娘さんの話では、生まれた時から住んでいるというから、生涯住み続けるつもりで半分持ち家のようになっているらしい。娘さんはいつも決まった時間に洗濯物を干しに軒先に出る。息子さんは最近はほとんど外へ出てこないが、数年前まで夜の9時きっかりに通りの自販機にジュースを買いに行っていた。娘さんは最近パートに出るようになった。なぜかこの娘さんと私は出かけようとするタイミングがかち合うことが多く、奥にある駐車場へ向かう際、タイミングを計ったように家から出てくるのだった。最近少し表情が明るくなったのは仕事をするようになったからだろうか。
挨拶に行くと、「そうですか、よかったですね〜寂しくなります〜」と、いつもの感じで月並みの挨拶で終わった。Oさん家には猫がいる。借家の契約書にはペット不可となってたはずなのに、入居して間もなく、カーテンの隙間から顔を出していた毛長の三毛を見て(猫飼ってるんかい)と心の中で突っ込んだのを思い出す。
聞けば15年くらい生きている老猫だそうだ。

通りに向かって右隣のHさんは60代の夫婦で、後ろに息子夫婦が住んでいる。町内会の世話役で、ずっとこの土地に住んできた家らしい。ご主人は離れたところでバイク屋を営み、朝9時になると軽トラで出勤し、昼時に一度帰ってくる。奥さんはちょっと話しづらい感じだが、いつも夕方サビ色柴犬と散歩に出てる。挨拶をするとニコッと会釈して通り過ぎる。後ろの息子は2年前ぐらいに新居を建てて移り住んだが、駐車場からフェンス越しに会っても目を合わせてくれない。
「近くなんで、町内会でまたお世話になります」
いつも回覧板を持っていくと吠える柴がなぜか吠えずにきょとんと見ている。
玄関に出た奥さんは「そうですか〜、よかったね〜、寂しくなるね〜」
こちらも月並みの挨拶で終わった。


通りに向かって左どなりのSさんは一人暮らしの婆さん。うちの借家の東側の窓から駐車場までの通路を挟んでSさん宅の西側の外壁があり、軒下に20cmほどの側溝が掘られている。雨が降るとその側溝に雨どいのないSさん家の屋根からポチャポチャと直接雨が滴り落ちる。私は、その音を聞くのが好きでよく雨の夜など軒先に出ては聞き入っていた。
入居して間もない頃まだわずかに朱色を残していた瓦屋根はすっかり色が落ち灰色がかっている。家は古く縁の下には今は珍しい礎石を覗かせている。
チャイムを押してしばらくして、ガラガラと引き戸が開いた。
「どうも、隣の庄司です」
見た目は若いが今年85歳で、耳が遠い。少し、反応に時間がかかる。
「あ、庄司さん、や〜こんな格好で、ごめんね」引越しのことを伝えるととても残念な様子だった。
「何かね、いつも色々やってもらって申し訳なくてね、旦那さん色いろやってるの見て、いいなと思ってたのよ」
特に何もしていないが、町内清掃の時などは、側溝の草やゴミを払うことをとてもありがたがられていた。私は側溝のチャポチャポが目的でやっていただけだったのだが。
「いつもね、なんか作ったりしてるでしょ、羨ましくてみてたのよ」
私が家の軒先で、棚やコンポストなどの造作をしていると窓越に声をかけていつも褒めてくれた。
「そういえば、前に言われてたブラインド、直してあげるって言って、そのままになってて、すみません。今度また見に来ますから」
通りに面している窓にかかったブラインドカーテンの4つのうち一つが割れてダメになっていて、見てほしと言われていたのだった。
「いいのよ、忙しいでしょ」と遠慮されていたが、業者に頼むとそれなりにかかるから、できれば見て欲しいとのことで、落ち着いたら修理に伺う約束をした。
気さくな人で、耳が聞こえない分ずっと話してしまうので、「また来ますね」といって失礼した。

最後は、面通りを挟んで右斜め向かいに住んでいるFさん。
Fさんは家族が離れに住んでいるが、普段家には一人らしい。Sさんと同じくらいの年だが、未だ自転車で町内を走り回り、頭もしっかりしている。瘦せ型で、少し気難しそうな顔をしているが、話すと色々近所のことを教えてくれる。移り住んだ頃は何度か直接家に来て話をして行ったが、最近は通りであっても軽く挨拶するぐらいだ。
Fさんはなぜか、通り抜け禁止の借家の敷地を通っていく。敷地の駐車場側には鎖が張ってあるが、その鎖もくぐって我が物顔で通り抜けていく。全く悪びれる様子はない。何度かその場面を目撃したが、全く動じた様子はなく、依然としてほぼ日課的に敷地を通り過ぎていく。8年前にくらべてれば衰えを隠せない様子だが、未だ気丈で、昨年の夏は屋根の上に登ってトタンの錆止めのスプレーをしているのを見た。
「ほうなの、わざわざどうもね、うち買ったの?ほう、おらいも向かいに新築立って日があだんねくなったから、家売ってどっかにうづっかども考えでんだげど、この辺なんぼで売れんの?」
Fさんは入居して間もない頃から、こんな感じで歯に絹着せぬ話しぶりが特徴の人だ。
「Fさん元気だね、自転車気つけてね、転ばないように」
モナカを渡すと少しかしこまったように
「いやいやどうもね」といい、玄関から一歩乗り出して
「Mさんも家賃下げねんだがらね、まあ、借家は捨金だがらね、よがったね、えらい」
Mさんとは同じ通りに並んだ借家の大家さんのことで、よくFさんは家賃払ってるんなら家買ったほうがいいと私にいってきた。

それから退去作業をしているとFさんは菓子パンやリポデーを差し入れに3回も家に来た。
「こんなのする人いなかったのよ、どうもね」と挨拶に行ったことがよほど嬉しかったようだ。「んで、なんぼで買ったの?」
相変わらず、率直に聞いてくる。
「ここの家賃払いくらいのローンで」というと「んだべ、Mさんまければいいのにね、まあ、家賃は捨金だからな、よかったよかった」
繰り返すのだった。

家具の運び出しをようやく終えた26日の夕方。玄関のチャイムが鳴る。
一瞬誰かわからなかったが、化粧をしてよそ行きの格好をした隣のSさんが立っていた。
「庄司さん、どうもね、こないだ頂いてしまって、なんか片付いていくの見ると寂しくなって」
「こんなものしかないけど」とメルシャンのワイン一本と昆布のわさび漬け佃煮、シャケの切り身のパックを置いていった。
Sさんは買い物は生協の定期宅配を頼っており、その中からいいものを選んで持ってきたらしい。

夜勤を挟んで不眠のまま、退去まで怒涛の3日間へと突入しようとする最中、一時のくつろぎを味わう。
昆布のわさび佃煮といのうのを始めて食べたが、美味である。
ほんのり鼻にワサビの辛みが抜けて目が潤んだ。

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