ベリーショートトリップ〜たまにどこかに行っている〜
19 春立ちて天狗に出会ふ(つづきのつづきのつづき)
あの時聞いた声は何だったのだろうか。
散らばった木屑を払い、コーヒーを淹れ一息ついたのち、再び板木に向かった。
ひたすらつづく彫りの作業はあの山の峰に登っていく心境に似ていた。
気を失ったのはほんの一瞬だったと思ったが、果たして本当に一瞬だったのか、記憶が曖昧である。実際には数分だったのかもしれない。
彫りに没入していくと、再び私は気を失った山の中に舞いもどった。
●
伏せていた上体をひっくり返し、仰向けになった。斜面が急なため、体はリクライニングに横たわるように40度ぐらいの角度で脱力していた。
木々の枝の間から、わずかに空が見えた。雲が早く流れている。風がさらに強くなった。
ようやく、脈が正常に戻ったのはそれから10分ほど経ってからだった。背を起こし、腰の脇にわずかに覗いた木の根のくぼみをみつけ、そこへ尻をねじ込み、座り込んだ。リュックから水を取り出してゴクゴクと飲む。時計を見ると12時を過ぎていた。頂上に着いたらゆっくり景色を眺めながら食べようと目論んでいた味噌おにぎりを一つ取り出し、枯れ葉の積もった地面を眺めながら口に放り込むようにしてむしゃむしゃ食った。
(まったく、俺は何をやっているんだか)
立っている腹を鎮めるように、おにぎりを胃の中に押し込んだ。
喉がつまり、また息が苦しくなる。水で流し込むとゲホゲホとむせた。
(まったく、何をやってるんだか)
風もそう言っているように聞こえた。
背中を斜面に倒し、また寝そべって空を仰いだ。
思わず笑いがこみ上げてくる。
(そうだ、さっきの声はなんだったのか)
今しがた聞いたばかりの声なのに、一瞬忘れていた。
意識が朦朧としていたため、風の音を聞き間違えたのかもしれない。正気に戻った私はその時そういう風に思うことにした。
(さてと)
気を取りなおし、再び山の上を見上げる。わずかに黒い岩かげが木の間に顔を覗かせている。
ここまできたら登るしかない。しかし、まだだいぶかかりそうだ。
しばらく薮の中をくぐるようによじ登ると、やがて薮は薄れ、太い広葉樹が立ち並ぶ一帯に出た。斜面はさらに急になり、木の根っこに手をかけ這いつくばるようにして登るしかない。完全にルートからは外れているようだ。斜面をジグザクに辿りながら少しずつ高度を稼いでいく。さっきの失敗を糧にゆっくり息を整えながら、上を目指した。
ようやくゴツゴツとした岩肌がむきだした地帯にたどり着いた。峰が近くなってくる。
しかし、斜面はさらに角度を増し、峰が近づくほどに崖登りの様相を示してきた。ルートを外れているため、ロープや鎖は見当たらない。
まだ序盤は落っこちても断崖ではないので大丈夫だろうと思ったが、一つ岩を越えるたびに、さっきまでの斜面が離れていき、直接落ちたら無事では済まないというほどのところまできた。足が少し震えた。岩の間に体を挟み込むようにして、じりじりと登る。
まだ、頂上は見えない。
岩をあがるたびに、風が強くなった。
その風は意思を持って私のいく手を阻んでいるようにも思えた。この山は標高はさほどでもないが、傾斜がきつく、風をほぼ垂直に受けるようで、高度を上げるたびに乱気流のような風が吹き荒れている。
下を見ると15メートルほどほぼ垂直に上がってきたことに気づいた。足の置き場所がだんだん見当たらなくなる。
チャコールグレーの岩肌はイボイボの突起が出ていて、まるで恐竜の皮膚のようだった。その皮膚に足を乗せるたび、恐竜が背中に止まった虫をふるい落すように風が巻き起こる。まるで私をめがけて何者かがでっかいうちわで扇いでいるようでもあった。風はあっちからもこっちからも吹き付けてくる。やがて風は顔を上げていられないほど強くなった。
さっきの声を思い出した。
目を細めて峰を見上げる。峰の先には日が照っていた。
(わーははは、登れるもんなら登ってみい)
峰の上からそう言っているような、何者かの気配を感じた。
岩山には天狗が住んでいるという。
道場岩のいわれは知らないが、どうもこの山の形状からしても修験の匂いがした。
(そういうことか)
と合点がいった。
さっきの声はどうやら天狗様だったらしい。
少し身震いを覚えた。
そして、風がうごめく崖にへばりつきながら、私は無意識に手を合わせた。
風が止む一瞬を狙うしかない。
峰に上がる手前にある最後のどでかい岩には足の置き場はなかった。峰の上に上がるには足をギリギリに岩の割れ目にかけて、岩を抱きかかえる様にして裏へ回るしかない。しかも、岩の裏側に足の置き場があるとは限らない。どうなるかわからない。この風ではバランスを崩し、15メートル真下に落ちてしまうこともあるだろう。
風がわずかに弱くなったが、その大岩の裏側へ回るのは賭けだった。
風はまた激しく吹いた。10分経っても一向に収まる気配はない。むしろ激しくなるばかりだった。
大きく息を吸った。
足と手を伸ばしてひっかけるところを探しながら体の位置をずらした。
その時、とてつもない突風が吹きつけた。左手の指が岩から外れ、体がのけぞりそうになる。間一髪、身を捩り、体勢をもどした。ゾクっと全身の毛がよだった。
大きく息を吐いた。
大岩に向かって左側に回り込もうとして出した足を引っ込め、そっと右足を一度掛けた割れ目に戻した。
(、、、やめておこう。)
危なかった。少し正気を失っていた。
足をゆっくり後ろ向きに戻しながら、体がなんとかまっすぐに立てるところまで戻った。
反対側の崖の方も経路はないか探ってみたが、同じく、崖に手をかけてほぼ腕だけで登るしかないようだ。
立っていられるのはわずかに崖の間に開いた割れ目の中だった。二つの大岩の間に30センチほどの割れ目があった。体をそこに挟み込むようにして、リュックの片方を肩から外し、中かからスケッチ帳と鉛筆を取り出した。
体の左半身を崖に挟み、左肩を押し付け固定し、バサバサと飛ばされそうになるスケッチ帳を押さえこみながら線を引いた。それはスケッチというものではなく、風が手を動かしているような殴り描きでしかなかった。
山を背にして左上から日が差してきた。風は一向に激しいが、日が差しただけ、幾分穏やかに感じた。
標高500メートルというだけあり、青く霞む山脈が幾重にも遠くまで連なっている。そのずっと先にわずかにキラキラと水平線に反射している光の線がが見えた。
何を描いているのかわからないようなスケッチを5枚ほど描き終えた頃、少し日が陰ってきた。風は収まる様子はなく、轟々と山の峰から峰へ渡っている。
まさにそれは天狗が笑いながら駆けているように見えた。
(どうもすみませんでした)
心の中でつぶやく自分がいた。
その心境は自分でもわからない。
スケッチ帳をリュックへしまい、再び山に向かって手を合わせた。
一瞬風がやんだ気がしたのは、はやり気のせいだろうか。
しかし、そこには確かに何者かの気配があった。
少しでも気を抜くと持って行かれそうな、そんな感じだった。
●
それから、ゆっくり、岩山を降りた。
そして、斜面をジグザグに辿りながら、おんつあんの言っていた山襞の反対に降りないように気を配りながら、登ってきた道をたどった。
薮の中まできて、風がやんでいることに気づいた。
振り返ると、かすかに小さく山頂の岩が見えた。
気を失った場所がどこだったか、もはやわからない。
登った道と少しずれているらしい。
やがて、下りきると、登った畑の反対側に出た。
はじめにおんつあんが「こっから」と言っていた場所だった。
ともかく、無事で降りることはできた。
車に乗りバックミラーを見ると額や首あたりも引っかき傷ができていた。
「ふでいち」に戻ったのは14時すぎ頃だった。おばちゃんに無事戻ったことを告げる。
「お帰り〜登って来たの〜?」
とおばちゃんはやはり素っ気なかった。
「結構きつかったです」
「道なかったでしょ〜」
「はい、途中気を失って」と言おうとしたがやめた。
「道なくて、迷いました。てっぺんまでは行けなかったです。怖くて」
と話した。
「そう〜。昔はね、みんなで登って遊んだんだけどね〜」
「え!?」
「子供の頃さ、あの岩の上に登って遊んだんよ〜」
「まじすか!?」
今しがた死ぬ思いで登ってきた自分はなんだったのか。
ルートを外れたとはいえ、相当に恐怖を覚えた岩山だった。
それをここの人たちは遊び場にしていたという。
2日で道を通したりできるのも、もしかしたらここの人たち、何か神通力でも隠し持っているのではないか。
おばちゃんのそっけない話ぶりも相まって、筆甫の人は特殊な能力を持った種族の末裔かもしれないと思い始めた。
私は出されたコーヒーを飲みながらぼそりと
「天狗かなんか、いそうでしたけど・・・」
とつぶやいた。
「あははは」
おばさんは大したことないというそぶりでそっけなく笑った。
窓から見上げた道場山には穏やかな日が差していた。
2021年、立春のこと。
●
あの岩山に身を挟みながら描いたスケッチを呼び起こしながら、版木を彫り終えたころはすっかり日が暮れていた。
インクを垂らして刷り上げて浮かび上がったその図像をみて、確かに私は、あの山で天狗に会ったとのだと思ったのだった。
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