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ベリーショートトリップ〜たまにどこか行っている〜

16   春立ちて天狗に出会ふ


天体の動きは正しく、立春を過ぎるとやはり気配が変わる。
重く暗い玄冬の幕が少しずつ綻び始め、たとえ足元の地面がアスファルトであったとしても、ほのかに陽の気が漂い始める。

今年は思いのほか寒さが長引いているが、私もいつまでもコタツ虫でいるわけではなく、少しずつ動き始めている。

畑に残っていた凍みかけた大根を採り入れ、たくあん漬けでもしようと軒先に干してみた。

大根は何かと重宝する作物である。食べきれないで余っても干してさえおけば、半永久的な保存食になる。余ったものは全て千切りにしてネットに入れて干した。まだ寒さが続くようだから、ちょうどいい具合に凍みて乾くだろう。

宮城県丸森町の南端に、筆甫地区という、人口500人ほどの集落がある。「筆甫のへそ大根」といえば、大根を輪切りにして串刺しにし、寒風にさらして作る特産品として有名である。乾燥するとへそのようになるあの大根を、ちょうど今、軒先に干した大根を眺めながら思い浮かべていた。

乾いた風にあたりながら空を見上げる。そろそろ東風が吹いてくる季節だ。

ちょうど去年の立春の頃のこと。
私はその筆甫にある山に登った。山に登ることになったのには、ちょっとした経緯がある。

筆甫は厳しい自然環境に加えて、原発被害に洪水災害と難苦が絶えない土地である。が、しかし、だからこそ、そこには共助に根ざした住民自治が息づいている。再生可能エネルギー会社の設立や、有志によるコンビニの出店、廃校を利用した保育と介護一体型事業など、中山間地域のモデル的な取り組みが次々行われ、近隣の地域からは「独立国」ともてはやされるほどだ。住民たちは一層たくましく、自分たちの暮らしを自分たちの手で作り出しながら、豊かな暮らしを営なんでいる。

その筆甫集落で昨年、震災復興10年を記念し、移住者向けのパンフレットを作る運びとなり、制作を請け負った知人が営むデザイン会社から、素材として使う版画制作の依頼を受けた。

これまで、私は美術制作を半ぶん遊びで行ってはいたが、一昨年あたりから、本業の介護福祉の仕事の傍ら、副業的に制作を請け負ってみたいと周囲に漏らしていた。というのも、それらは遊びでやるぶんには楽しくて良いのだが、そもそも私は、自分の作品や作風というものはなく、表現したいものもない。普段はほとんど創作的なことはやっていない。ただ、なぜか依頼や機会があれば俄然として制作意欲が湧き、寝食を忘れて没頭してしまうというわけのわからない二面性を持ち合わせている。

「どうかお題を下さい」

とお願いする理由は、一つは介護福祉の仕事だけでは、どうもその二面性を維持するバランスを欠いてしまうからである。一方で、仮に完全に表現や制作の世界に身を置けることが許されたとしても、それはそれで精神的に持たないだろうと思う。

であるからして、二面性を維持するための履物が必要になるのであるが、それは、二足のわらじを器用に履き替えることではなく、そもそも、わらじの片方ずつが違っているような状態でいることのようなのである。日常とアート(非日常)が右足左足とお互いを補いながらギクシャクして歩くような状態とでも言えようか。そのぎこちない歩きこそ私的にはバランスであると狙っている。

何か制作のお題さえいただければ、自動的に頭は発火し始める。それが制御できなくなるほど暴走してしまうのが危険なのである。日常の仕事はその暴走停止のヒューズのように働くことになる。反対に、普段の単調で管理的な仕事の抑圧が創作の原動力として溜まっている。抑圧と発火をうまく利用できればと思っている次第である。

さて、しかし、制作の機会が与えられても、これまではどこかしまりの悪さを感じていたことも事実だ。遊びごころは大事にしたいのだが、肝心のところで腰が折れたり、根力が失われてしまうきらいがある。制作物に比して、脳内の発火の消耗の方が激しく、最終的に形にならないものの方が多かった。発散をしてそれなりにバランスは保てているが、成果が乏しいことにやや虚しさを感じてきている。

一度、対価を得てやってみたい、と思うようになったのは、責任やプレッシャーを支えにした場合、どんなもんだろうかと考えたからだ。

そんな折の版画制作の依頼だった。

正式に対価を得て制作するのは初めてだ。
それなりに気負いがあったが、技術的に大したものがあるわけではない。

依頼主もある程度私のことを知っているから、なんとなく求められていることは理解はできていた。
打ち合わせの後、すぐに脳内発火が始まった。

その後しばらく寝食を忘れて制作に没頭することになるのだが、天狗にあったという話は、その制作の取材のために筆甫を訪ねた時のことである。

(つづく)

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