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ベリーショートトリップ〜たまにどこかに行っている〜

20    フキの子


弥生三月は一年でも特に好きな季節だ。
寒さと暖かさの微妙なあわいが心地よい。

家々の庭先から漂ってくる早咲きの花の香りに誘われ、野良猫のようにほっつき歩く。
梅、桃、水仙、福寿草。名前を知っているのはそれくらいだが、道脇のわずかな土くれにはいつの間にか青々とした草が伸びている。その中には小さな花を咲かせている草もあった。
調べ物があり、図書館に寄った。ついでに、道脇に咲いていた花を思い出し、植物関係の書架に足を運んだ。
「雑草という草はない」と言ったのは、昭和天皇だったが、これは植物学者の牧野富太郎の言葉を引用したものである。どこの図書館でも牧野富太郎による分厚い『牧野日本植物図鑑』は大抵置いてある。数巻ある中の一つをランダム手に取って、ひょいと、占いのように1ページを開き、その中で出くわした植物の記事を拾い読みする、というのが図書館に行ったときの習慣なっている。
牧野が書いた『植物一日一題』と言う文庫がある。「馬鈴薯というのは決してじゃがいもではない」から始まる随筆集で、硬い文体から「こんな誤りはけしからんのである」という風に、その誤謬を説き伏せていく。いかにも学者という感じで面白く読んだ記憶がある。内容ほとんど忘れてしまったが、実は私たちが知っている植物の名前は学術的には間違っていることが多いのだという。
どんな草も暦とした名前があり、意外ないわれもあったりする。パラパラとめくった『柳宗民の雑草ノオト』にもこんな内容があった。
例えば、正月に食す七草粥の七草。セリはまあいいとして、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、ズズシロ、「これぞ」と大そう得意げに唱えられるが、スズナはカブ、スズシロは大根のことで、他は基本雑草の類である。まだ寒い一月頃は神妙な面持ちで摘まれるが、3月ごろともなれば、ほとんど見向きもされない。しかし、実はどれも見慣れた雑草であり、花を咲かせた絵を見ると「ああ、これが、ナズナ?」「これがハコベラ?」という感じで良く見かけるものである。その本によれば、ゴギョウは正しくはオギョウらしく、またホトケノザは、和名をホトケノザいう、七草とは全く別のものがあって混同されやすいらしい。図鑑でも間違っているものがあるというから面白い。七草のホトケノザは和名をタビラコといい黄色い花を咲かせ、葉はタンポポに似ている。東北地方ではこのタビラコは自生しておらず、似ているオニタビラコを代用している。他にコオ二タビラコと言うのもあるとか。
他にもたくさん面白い内容があったが、あとは忘れてしまった。

帰り道、また道草をして歩く。あるわあるわ。こうしてみると図鑑に出ていた草花があっちにも、こっちにも。人は見たいものしか見ないというが、注意してみると、小さな草花がしたたかに春の息吹を吸っている。

どぶ川の縁を歩いていると、湿った黒い土の中に鮮やかな黄緑色が二つ顔を出してるのを見つけた。

蕗の薹。
こういうものは、探すとないものだが、意表をついて現れるから不思議だ。

「ふきのとう、とっさいくべ!」
エイコさんがいう。

もう十年以上前にホームで受け持った人。(利用者という言い方があまり好きではない)
これまで何人も接してきたが、年寄りというのは人間が熟成しすぎていて、それだけ個性が強く、鮮明に記憶にこびりついている。加えて、その関係性は、今風に言えば濃厚接触どころか超濃密接触であり、それだけ思い入れが強くなってしまう。いちいち感傷に浸っていては身が持たず、普段はできるだけ考えないようにはしているのだが、こうして不意に声が聞こえるから困ったものだ。

                                 ●

「昨日行ったけど、でてなかったでしょ」
「でっでってば~、いま一回いってみっぺい!」
春の天気のいい日に、散歩どころか外で少し日に当たることさえしてあげられないのは人権問題にならないのか。何とか少しでもお日様にあたってもらうように努めてはいるが業務に追われ10分の散歩も難しかった。

「午後からならいげっかもしんねがら、いい?」
「午後からが~」と、エイコさんはしぶしぶ車椅子を押して部屋へ戻った。
午後何とかやりくりして10分の時間を確保した。
急いで部屋に呼びに行く。
「エイコさん!んで~いってみっぺい!」

4月下旬ごろだった。すでにふきのとうの時期はすぎていた。3下旬に一度たくさん出ていたのを見せて以来、エイコさんは天ぷらして食べたいと会うたびにこぼしていた。

「もう終わったんだわ、わらびだのはこれからだげど」
といっても、「あっつの方さででってば」となかなかあきらめきれない様子。
施設周辺を歩き回り、車道まで出たところに15センチほどに伸びたのが数本生えていた。塔立ちし花を咲かせており、食べごろは過ぎていた。
「ほれ、こいなんだよは、食えねべわ」
と採って手渡す。
「食えるべした!」
「いや~食えねべ~」
「食えってば~!」
食えなくはないが、うまくはないのではないか。
「こいなの食えんの?」
「食えってば」
一向に引かない。

仕方なく数本とって戻る。
テーブルを囲んでいた他の年寄り数人に見せて聞いてみる。

「これなんだがわかる?」
「ふぎのとうだべい」と皆目を輝かせながら口をそろえた。
「こいなのもう食わんねよね~」
「なにいってんの~食えるべした~」と一斉に反応。
「え~~~~」
「こんなんだよ、茎」(大きくなって食えないことを主張する)
「ほいづはね~、やまぶき、ふぎのとうがおっきぐなったの」
「それは知ってるよ、だからもうこうなると食えないでしょ」
「食えるの~」
「食えるでば~」
(全く頑固な年寄りたちだ)
「フキじゃないんだよ、ふきのとうだよ」
「何いってんの、ほいづはフキ~」
「いやいや、ふきのとうだって」
「何いってんの、ふきのとうもフキもおんなし~」
「なになに???」
「ほいづはね~やまぶぎ、ふぎのとうがおっきぐなったの」
「知ってますよだがら、だからフキじゃないでしょ、ふきのとうでしょ、葉っぱがフキと違うでしょ、おんなじなの?」
「ほいづはね~、フキの子、フキが親でほいづ子なの」「フキが子でねの?」
(え?何言ってんだこの人たち…)
「ほいづはね~やまぶき、ふきのとうがおっきぐなったの」
「うん、ふきのとうが、おっきくなったんだよね、そう、でも、フキとフキノトウは別だよね…・」
「何言ってんのー同じだでば!!!!」
「同じ、同じ!!」集中放火を浴びた。
(ま、まじか、!?)

恥ずかしながらその年まで、ふきのとうとフキは近い品種かなんかだと思っていた。同じような場所に生えているからそういう名前なんだと思っていた。まさか、同じだとは。


「だって、全然違うじゃん、これがどうなってフキになるのよ?」
「そいづはね、フキの子なの」 
どうやら疑いないらしい。

フキノトウはフキの地下茎から出たものであることを知ったのはその後だった。

思い込みとはおそろしい。同じものだとはつい思っていなかった。年寄りはボケていると思い込んでいた。お年寄りの話は謹んでよく聞くものである。

           ●

「おんなじなの~しらんかったよ~でも食えないでしょ~」
「食えってば!!」
「でもうまぐはないでしょ~」
「それはそうよ、んまぐはね~よ」

「ほいづはね~やばぶぎ~」
「ふぎのとうがおっきぐなったの!!!」

声たちは春風に乗って飛んでいく。

          ●


先日もまた一人、受け持ちの人との別れがあった。


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