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ベリーショートトリップ〜たまにどこかに行っている〜


8 青い少年


日が傾きかけ、立ち並んだマンションが影を落としはじめた。まだ青く明るい空に少し欠けた白い月がぽっかり浮かんでいる。

(ここはどこなんだろ)。

当てもなく駅に降りた。新幹線の高架橋をくぐり、通りにでて、横断歩道の信号待ちをしていると、小学校低学年くらいの男子が隣にならんだ。信号が変わるやいなや歩き出し、私の前を行く。青い帽子に青いTシャツ青いリュック、紺色の半ズボン。青尽くめの出立ちに、左手に持っている白いボストンバックが目を引く。何が入っているかわからないが、そのバックをブラブラとふりまわし、自分のスネやモモに当てながらいかにもだるそうに歩いている。しかし、その少年、だらけて歩いてはいるが、速い。ちょうど私の歩速を計るように5メートルほど前を行きなかなか追いつけない。しばらく跡をつけるように歩いたが、少年はやがて細い道に入っていった。そこで分かれてまっすぐ歩いて行くとスーパーが見えた。夕方の買い物客で賑わっている。入り口に差しかかったところ、ひょこりさっきの少年が小脇からあらわれた。ショートカットしてきたらしい。少年は私の方をチラッと見るとまた5メートルほど先を歩いて行く。
西日が強くなった。少年の姿は逆光となり、後光が差したように光を放射した。そしていつのまにか少年は光の中に消えた。
やがて道は大きな通りにでた。左に曲がり通りに沿って歩いていると黄色い声が聞こえてきた。声の方につられて行くと小川の向こうに岸に保育園があり、黄色い帽子をかぶった園児たちが賑やかに跳ね回ているのが見える。

小川は護岸をコンクリートでかためられているが、堆積した土砂に草が根を張り、その茂みが自然な水の流れをつくっている。青黒い川の水は思いのほか透き通っていて底が見えた。護岸のヘリに人がやっとすれ違えるほどの細い道が通っている。川の流れを見ながら、その細道をゆっくり歩いていく。コンクリートの街中にあって、この川筋だけは、管理から放たれた植生がオアシスのように展開している。鬱蒼とした草の茂みに広がる虫の声の豊潤な音色。土があり水が流れるだけで無限に生じる生き物の小宇宙。豊かな気持ちに浸りながら歩いた。しばらくして来た道を振り返ると、湾曲した道の先さきの橋の上にあの青い少年がいる。少年は橋の上を横歩きで行ったり来たりしなが川の底を見ていた。そして橋を2往復し終えたところで渡り切り、またその姿を消した。
後ろ向きで歩きながらそれを見送ると、左の肩に触れるものがある。振り向くと山百合の花が3つ、道脇の家の柵からはみ出して咲いていた。花は疲れたように首をもたげており、白い錐状の花びらのフォルムが日陰に粛として映えている。

川に目を転じる。微風が蒲の穂をかすかに揺らしている。水面に動くものがあった。30センチほどの草亀が浮かんでいる。草亀は憎たらしいほどのんきな顔を水面から出して、両手をゆらゆらさせながら、極楽気分で湯に浸かっているようだ。水面に落ちた私の影が動くと亀は水の底に消えた。

川下へしばらく歩くとやがて小道は途絶え、行く手には対岸へ渡る橋が残されただけだった。その橋を渡り、再び対岸の小道を川上へ遡るように進んだ。

道の向こうからあの青い少年が歩いてくるのが見えた。そして、その顔がはっきり見えるか見えないかというところまで来たとき、少年は道を折れ、また姿を消した。


(あーこれは夢ではないか)。

(飛んでみるかな)。

夢を見ていてたまにこれは夢だと気がつくことがある。あるいは、あてもない徘徊をしているとそんな心持ちになることがある。そんな時、それは夢かうつつか覚めなければわからない。

徘徊とはあてもなくさまよい歩くことを言うが、それが散歩と異なるところは、自分が誰で、今がいつで、ここがどこかわからなくなるほどに歩く様をいうのではないか。認知症の周辺症状の現れとして言われる徘徊の定義はこれと少し異なるが、この「徘徊」という言葉を、勝手に侮蔑的なイメージと捉えて、「ひとり歩き」と言い換える動きがある。しかしその軽々しいニュアンスとは異なる、崇高で深淵な趣を内包するのが「徘徊」なのだ。

それは夢の中にいるような状態に似ているかもしれない。

こうした、夢うつつの徘徊をたまにやる。

不規則な生活のため、慢性の睡眠障害らしい。しばらく寝れなかったあとは20時間近く寝たりする。睡眠時間が長くなるほど眠りも浅くなる。眠りが浅くなるから時間が長くなるのか。浅い眠りの間は多く夢を見る。

ところで、こうした惰眠をつづけると、私は金縛りによく襲われる。金縛りには前兆がある。寝ているのか覚めているのかわからないような状態でいると、やがて外界と自分との境界が無くなっているような不思議な感覚に陥る。そして、ふと自分に意識にもどるとき、かすかに地鳴りのような音が聞こえてくる。次の瞬間には体が動かなくなる。

それが物理世界で何分間のことなのかわからないが、自分の感覚では2,3分つづく。そして、意識を集中してどこか一瞬のすきを突くように思いっきり体を左右に振りきると解けるのだが、私の金縛りはさらに手ごわい。

そうして振り切って解けたと思った金縛りが実は夢の中で、まだホントの私は覚めておらず、まだ半覚醒のなかで、眠りに落ちるとまた地鳴りが起こり、また再び金縛りにあってしまうのである。つまり、完全に金縛りを解くには完全に私が目を覚まさなければならない。そして、この完全に覚めたかどうかは、完全に覚めてしまわないとわからないからややこしい。

時に覚めても覚めてもそれが夢の中という多重構造の夢意識界を漂うことがある。その時不思議なのはまだホントは夢の中であるのに、構造の中の夢で目が覚めたと気付いた場合も、それは現実と同じように意識や感覚があり、意思通りに動けるのである。

例えば構造中の夢から覚め一度トイレに起きて、水を呑み(やれやれ、やっともう一度ねれる)と思って床につく。ふと気づき目が覚める。(おや?今目が覚めたとすると、トイレに行ってきのは夢か)と気が付く。

さて、そんな不思議な世界を彷徨っているうちに、私の意識もある覚醒を始めたのである。

それは、夢を夢と自覚し夢の中で自由意思を振る舞うことが出来るようになったのだ。

ときに(これは夢ではないか)と気づく。そして、それを気づくと同じく気づかないふりをするようにふるまう。つまり、覚醒するふりをする。そこで(よし、すこし浮いてみよう)と少し意識をコントロールする。すると体が浮きあがる。調子がいいと上空100メートルぐらいを浮遊することが出来る。そこで垣間見る風景はすさまじくリアルである。リアルすぎるところが、むしろ現実的ではないのだか、それに気づかないふりをする。しかし、調子に乗り、あまりに意識を強く働かせすぎ、何かやってやろうと念じると(パン!)と糸が切れるように目が覚める。

こういうことを繰り返すうちに、普段覚めていても、それがもしかしたら夢の中であるかもしれないと思うことがある。完全に覚めたかどうかは、完全に覚めてしまわないとわからない。いずれもややこしくあやうい世界だ。

あの青い少年は、もしかしたら私の夢とうつつを自由に出入りしているのかもしれない。

河原の草の茂みはいつの間にか色を失い、巨大な黒い塊となって横たわっていた。







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