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ベリーショートトリップ〜たまにどこかに行っている〜


3 霧蛍

ホタルのシーズンは6月。
七十二侯の「腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)」は6月10日から15日とあり、そろそろ出始めてもおかしくはない頃だ。
夏のイメージが強い蛍だが、小川などにたくさん乱舞する姿が見られるのは6月下旬の、しかも幾つか条件の整ったの数日でしかない。その日に出くわすかどうか、毎年機運を占うような気分で出かける。
ここのところ日中の気温が高く、もしや今年はその日が例年より早まるのではという予感が日に日に積もり、下旬を待たずして、もはや行ってみないわけにはいかなくなっていた。
気温が30度を超えた夏日。仕事帰りにしばらく夕暮れを眺めていて、不意に思い立ち、角田、丸森方面に向けて車を走らせた。
             
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ところが、日が落ちるとともに急に気温が下がり、冷たい西風が吹いてきた。勘ははずれ、蛍が出る時の、あの湿気を含んだ、無風の、モヤっとした空気はなかった。それでも気の早い数匹がちらほら飛び始めてはいないかと、少し意地になり、めぼしいポイントを一通り回って探索した。しかし、虚しくこの日は一匹も見当たらない。やはり少し早すぎたらしい。
諦めて帰路につき始めた頃には23時をとっくに過ぎていた。
阿武隈川沿いの県道28号線に入ると、辺りに薄い霧が立ち込め、車の窓を開けるとカエルの鳴き声とともに、田んぼの方から冷たい風が車内に入ってきた。
深夜の農面道路。点在する街灯の光が夜霧の中にぼやけ、闇の中に巨大な宇宙船が浮かんでいるように見える。遠のく上空に霧の粒子に反射した街の光が薄い筋を引いていた。
     
                 ◉

カーラジオが0時の時報を告げ、東根の坂津田から平貫に抜ける道の諏訪神社手前のカーブに差し掛かろうとした時だった。左手に見える街灯の下に人影がある。
霧の中、傘状に垂れ下がった街灯の白い光の下に、スポットライトが当たっているようにそれは立っていた。速度を緩め、動体視力を研ぎ澄ませながら近づくほどに、その像ははっきり人と見てとれた。30メートルほど手前まで近づくと、その人は手を挙げていることがわかった。こうした所には交通安全のためのカカシが立っていることがよくあり、それもおそらくそうであろうと、スローモーションですれ違う瞬間には、脳内の認識が(よくできたカカシだな)という風にそれを確認しようとしていた。
(???)
私は目がいい方で、カカシと人間を見間違うことはない。そのカカシと思われた像には確かに顔があり、顔には目があり、その目は明らかにこちらを見つめ、通り過ぎる瞬間、その目は私の視線と合った。そして、車がその像の横を過ぎるに合わせ、その首をぐるっとこちらへ向けたのである。
(・・・)
バックミラーには明らかにこちらを向いて立っている像が映っており、先ほどまで挙がっていた腕がゆっくり下がった。
(人か・・)
農面道路に深夜手を挙げて立っている人間がいる。ありえないことではない。私自身、身に覚えがある。川崎町の街はずれでバイクがパンクしまい、深夜の2時間途方に暮れ末、やっと通りがかった一台の車に拾ってもらったことがあった。少し走りながら一瞬にしてそんな記憶が呼び起こされた。だとしたら困ってるだろうという思いが浮かんだ。そして、ひとまず、あれが本当に人だったのか確認しなければなるまいということになり、Uターンし引き返すことにした。
もしかしたら、それは人ではあるが、物質的な存在ではなく、ただ像としてだけの存在かもしれない。
それならそれではっきりすればよい。

                 ◉

その像は先ほどと変わらずそこにあった。輪郭もぼやけたりはしていない。街灯に照らされ影ができているから、実体としてそこいるのは確かなようだ。黒っぽい服装ではじめ警官のようにも見えたが、それは制服ではない。黒いスカジャンにハット帽をかぶった男だった。
通り過ぎたところで止まって声を掛けようとしたが、少し警戒し、反対車線でもあるため一度そのまま通り過ぎた。いでたちから(東南アジア系人かな)とも思いつつ、しばらく行った曲がり角でUターンして戻り、もう一度人相を覗った。
小脇にギターを抱えている。
彼が今立っている場所は人気ない県道。道路脇には地区の人が作ったらしい花壇があったが、街灯の光で赤黒く見える花はしおれており、何か物悲しさを醸し出していた。
ヒッチハイクにしても何故この場所で立っているのか?これはこのままスルーして帰ってしまうと、余計な妄想が膨らみかねなくなり、車をとめ、声をかけた。
「こんなところで、どうしたんすか?」
「あ、あの〜上まで乗せてもらいたいんです」
(とりあえず日本人らしい)
そして、その声の調子からは悪意や怪しさは感じられなかった。
「なにされてるの?」
「弾き語りしながら、まわっているんです」
「ほ~」

                 ◉

私はその時点で警戒をとき、車に同乗させることを決めた。しかし、何が起こるかはわからない。自分の判断としてそれなりの覚悟をしたとうことだが、それはすぐに杞憂となった。
彼はスミマセンと言いながら、そそくさとギターを抱えながら助手席に乗り込んできた。
「どこから来たんですか?」
「気仙沼です」
「へ~」
30代ぐらいだろうか、顔ははっきり見えないが、特に悲壮感はなく、どちらかというと明るい印象だった。
「こうしてヒッチハイクしてまわっているんですか?」
「はい、昨日は大河原、その前は、白石とかまわってきました」
「へ~。で、どこまで乗せればいいですか?」
「亘理に行こうと思って、その途中の山の上あたりで降ろして貰えれば」
「どうせなら亘理までいきますよ」
「いえ、山のてっぺんでいいんです」
「山のてっぺんといっても、この先はちょと峠があるだけですけど、そこでいいんですか?」
「はい、そこで2,3曲やったら一人で下っていくので」
「ほ〜、弾き語りってそういう・・・、お客さんいなくてもいいんですか?」
「はい」
話を聞くと、つまり彼は、ただ、道々に軌跡を点じて行くようにその場所で演奏していく、ということを何を思ってか決めて行じているらしい。
「亘理の治安はどうですかね、石巻ではえらい目にあってしまって・・・」
「治安ですか・・・」と、
身の上話を詳しく聞くいとまもなく、3、4キロほど走ったところで角田と亘理の境の峠に着いてしまった。これぐらいの距離なら歩いてでも来れそうだが、ここが彼の希望するてっぺんに一番近いところであることを告げると
「あ、もうここでいいです、ここで」と車を止めるようにと言う。
「そうですか、なんなら終わるまで待ってますよ、そしたら亘理まで送りますよ」
「いえ、だいじょぶです、ほんとありがとうございました」
と、彼はそそくさと降り、すでに頂上に伸びる細い山道に足を踏み入れようとしている。
「そうですか、では気をつけて」
とあまりにもその去り際がそっけなかったので、私も知り合いを駅に下すかのように車を出してしまった。

                 ◉

そのまま峠を下り亘理に入った。国道6号線に突き当たり、左折したところで(はて)とどうも気になり、コンビニの駐車場に入り車を止めた。
(なんか変な感じだったな)
ヒッチハイクして旅をするのは別に珍しくはない。ただ、気仙沼から来たにしては荷物が少ない。そして、彼は公園とかに寝泊りしていると言っていたが、その身なりはそれほどくたびれてはいなかった。私もこれまで何度か野宿の経験はあるが、6月とはいえスカジャンとジーンズだけでは厳しい。寝袋を持っているようにも見えなかった。また、彼の言葉には県北の方の独特のイントネーションがなかった。あのイントネーションは隠そうとしても隠しきれないはずだが、一切それを感じさせなかった。
いや、この際、彼の素性のことはどうでも良い。要は、彼は本当にただ山のてっぺんで歌って降りてくるのだろうか、ということである。
嫌な予感はなかった。しかし、彼があの真っ暗な山頂で歌って後、そのまま山の中へ分け入ってしまうこともあり得ないことではない、と頭をよぎった。
(彼がこの時間帯になぜあの区間だけをヒッチハイクしようとしていたのか)。(亘理まで乗せることをなぜ執拗に拒んだのか)。(もしや俺がこの世で最後に合った人間になるとか・・・)。むしろ乗せなかった方より余計めんどうなことになってきた。そのまま帰ると、また妄想が収まりきれなくなること必至である。
        
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コンビニに立ち寄り、缶コーヒーとあんぱんを買って6号線を引き返した。
峠の霧はさっきより深くなり、ライトを遠目にしながら、いくつかカーブを抜ける。
もうすぐ峠に差し掛かろうとするとき、霧の中からとつとつと歩いてくる男にライトが当たった。男はライトの光を気にする風でもなく、ひたすら坂を下っていた。
(本当に、ただ、歌って降りてきたのか・・・)
心配はまたしても杞憂に終わった。というか、少しアホらしく思えてきた。
車をとめ、声をかける。詳しいことを聞くのはもはや面倒になり、用件だけ伝えた。よければ家に泊まってもらうかと持ちかけたが案の定断られた。ならば、ちょうど車に寝袋を持っていたので渡そうかと言うが「だいじょぶです、だいじょぶです」の一点張り。とにかく亘理までは送くると言ったのだが、ヒッチハイクをしている割になぜかそれも固くなに遠慮し拒んだ。
「そうですか。じゃこれ、気をつけて」と、缶コーヒーとあんぱんの入ったビニール袋を渡した。
「すみません、ありがとうございます」とそれを受け取けとると、彼はまたそそくさと下り坂を下り始めた。

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彼がなぜあような行動をとっているのかわからない。本人もおそらくよくわかってはいないだろう。
(勝手にしやがれ)という思いとともに、余計な妄想が少しずつ収まるのをおぼえながら峠を下った。
白い霧靄の中をしばらく走っている最中、まるで夢の中に現れる一シーンのように、頭の中にだいぶ前の記憶の映像が浮かび上がってきた。
かつて私は四国遍路をしたことがあって、ある寺の門のところで荷物の整理をしながら一人座っていた。すると、「はいこれ、頑張ってね」と肩を叩かれ、振り向くと年配の婦人が紙包を差し出してきた。まだ遍路を始めたばかりで何のことかわからず、何気なくその紙包を受け取り開くと中に一万円が入っていた。それが遍路をする人に施すお接待であることを知るのは、その後何度かそういうこと(さすがに一万円はないが、お菓子や小銭をくれたりすること)があってからのことであるが、その時、その婦人は私に「行者は世間の人々に代わって行をさせて頂いておる。それをさせてもらえることを有り難く思えたらええね〜」というようなことをさらっと告げた。驚きのあまりこちらがお礼を言うとすることもできないでいると、すでに婦人はその場から立ち去っていった。
例えば、道行く縁もない私に人が施しをくれたとする。私はそれに返すすべはない。同じく施しは見返りを受け取っては功徳にならない。つまり、ギブ&テイクが出来ない世界にいるわけである。もらたっら何かで返せばいいだろうとはいかない。施された方は己の無力をただ味わうしかない。遍路道を行く人はそうして他者の施す功徳を背負わされるのを感じながら、ただ虚しく歩いていかなければならないことになる。

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彼にどんなことがあったかは知れず、彼が彼なりのなりの行をするのは勝手なことだ。そして、そんなことができることは尊いことであると思う。
私が彼にしようとしたのは、決して親切心や憐れみではなく、どうやら、かつて遍路道で受けたお接待の、あの返せない功徳の感覚から生じたものだったらしい。それをせっかくならば彼にも受けてもらえたらという思いから生じた、いわば功徳の押し売りだったようだ。彼が何かを行じているつもりなら、それを受け取ることが功徳である。

しかし、彼はそもそも行じているのかどうか、今となっては知るすべもない。

霧の中、虚しく、走る。

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