ベリーショートトリップ〜たまにどこかに行っている〜

41 ベリーショートトランス6


2022年12月24日。
その日は荒れ模様の予報だったが、朝から日が照っていた。
10時に売主と不動産屋の事務所で契約を取り交わす算段になっていた。
身なりをそれなりに整え、着慣れないジャケットを羽織って妻と二人事務所へ向かった。
10時きっかりに雑居ビルの2階にある事務所のドアを開けると担当のHさんが出迎え応接室へ通された。

応接室で担当者の隣に座って待っていたのは60代後半くらいの小柄なおじさんだった。
「こちらが売主のSさんです」
と紹介されるとエヘエヘといった感じで立ち上がり、
「あら、こんな若い人だったの〜どうも〜よろしくお願いします」
と、短い手を股間に添えるようにして合わせ、軽く頭を下げた。
妻と私はおもわず口元がほころばせながら
「よろしくお願いします。」
挨拶を交わした。
顔を見合わせると再び口元がほころんだ。想像していた売主とあまりにも違っていたからである。
値引き交渉にも、修繕の相談にも応じないということだったから、かなり偏屈で堅物なイメージを抱いていたのである。
身なりもきっちりして、金縁メガネをかけ、髪の毛なんかもきっちりと固めている。私はいつしか中学時代に見たぶっきらぼうな年配の英語教師にそのイメージを重ね合わせていた。
それが目の前にいるのは作業着を着た、さっきまで工事現場にいたような感じのおじさん。完全に拍子抜けしてしまった。

外が少し薄暗くなり、小雨まじりの風がガラス戸を打ちつけている。

席に座り軽く会話を交わした。
Sさんは売り家の元の持ち主の甥で相続したとのこと。聞けばそれほど急いで売るつもりもなく、今回契約に至らなければ販売を取り下げ、妹にでも譲ろうかと思っていたという。もう少し交渉をこじらせたらやはり契約には至らなかったことを思うと、不思議な縁なのかもしれない。

物件の条件や土地の登記関係についての重要事項内容文を仲介役の担当者が淡々と読み上げること20分。一通り確認事項を終えて後、サインをして契約が成立した。

手付金の50万を入れた封筒を直接売主のSさんに渡す。Sさんはエヘエヘといった感じで、札束を広げ数え始める。
「実は今日Sさん誕生日なんですよ」
と担当者が口を添えた。
「そうだったんですか、おめでとうございます」
今日を契約日に選んだのはこちらの都合だったが奇遇というのはあるものだ。
Sさんは照れ臭そうにエヘエヘと言いながら札を数え終えると、またエヘエヘいう感じでポーチバックに封筒をしまう。
図太く節くれだった手指が目に止まった。
今は仕事は辞めているらしいが、工事関係の仕事をずいぶんやってきたらしい。
「あの〜門のところさ、俺、ユンボで崩して、上さ車であがれるようにスロープにすっかど思ってだんだけど、やってあげる?」
突然Sさんが話を切り出した。
「お金はいいよ、廃棄にかかった分だけで」
一体どういう工事をするのかイメージが浮かばなかったので、その際は後でご連絡しますということにしたが、どうも気のいいおじさんである。

会話が途切れ少し沈黙があった。私はペットボトルのお茶を開け一口に運んだ。
窓の外はまた日が差していた。
「とりあえず、契約はこれで終了になります」
とHさんが場を閉め、双方立ち上がって再度挨拶を交わした。
先にドアを出たSさんの小柄な後姿を見送りながら思った。
もしかしたら、Sさんと直接交渉ができたらもう少しうまく話が運んだかもしれない。そして、どうやら、仲介担当のHさんはじめ不動産側はSさんにこちらの交渉内容や購入にあたっての条件等を伝えていないのではないかと。
それは入居後起こったちょっとしたトラブルでも明白になるのだが、この時点では、契約を交わした以上は不動産屋のやり方ということで何とも致し方ないと思うしかなかった。書類を確認して気付いたのだが、ここでの不動産仲介料というのは、住宅の価格に対する利率で算定され、売値が下がってしまえばその分仲介料も下がるのである。
そうすると、契約前の段階で直接売主と交渉できるとしたら、売主側も買い手側も両方が得する方法が出てくる。
つまり、Sさんから不動産屋へ物件の売買と仲介を一旦取り消してもらう。その後直接私がSさんと売買契約を結ぶことができればどうだろう、今回の契約に当てはめれば、お互いの不動産仲介料50万を浮かせることができるのだ。
しかし、そんなことをしたら不動産仲介業が成り立たないし、仮にトラブルが起こった場合の損害は計り知れない。そのための仲介料だといわれればそれまでだが、契約のその時までお互いのことを全く知らされないというのも昔のお見合いのようでどこか不思議な感じがしないでもない。

事務所を出ると濡れた地面に日が照り返しキラキラと光っていた。

帰りに妻と寂れた定食屋に入り、たぬきうどんをすすりながら、「Sさん面白かったね」と話がもちきりになった。
肝心の契約の重たさはどこかに置き忘れてしまっていた。

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