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終わり、終わり、終わり。

 どこで書くかと悩んで、noteしか思い付かなかった。どこでも良かった。どこで書いても後悔するからだ。後悔するなら、ここが良かった。たとえ私の知らない間に、様変わりしていたとしても。ここで書きはじめたから。

 いつだって始まりがあれば、終わりがある。創作活動だって、そうだ。創作された言葉の群れは永遠に残る可能性もあるが、創作活動の終わりはいつかおとずれる。自ら断筆する者もいれば、死んで未完の物語を遺しながら活動を終えていく者もいるだろう。

 私もいまある終わりについて考えている。

 あぁ駄目だ。こんな書き方をすると、まるで創作活動をやめるみたいな感じだ。許して欲しい。今回、私は見切り発車で書いている。結びなんてひとつも考えていない。ただ、私の人生の、ある終わりについて考えている。それは私にとっては、とても怖いし、不安なことだ。

 ある終わり。

 なんかとても曖昧な、思わせぶりな言い方だ。すごく嫌だ。不快だ。ときおり本当に感情の赴くままに、言葉を吐き散らかしてみたい、と思う。だけどそれはできないのだ。言葉を書いているのは、私であって、私ではない。

〈サトウ・レン〉は私であって、私ではなく、私からしてみれば、すべてをさらけ出すことのできない上辺だけを取り繕った私にしか過ぎない。たまに〈サトウ・レン〉を指して、優しい、と言ってくれるひとがいる。当たり前なのだ。上辺でさえ優しい雰囲気を取り繕えないひとのほうが稀だ。

〈サトウ・レン〉と〈私〉は連動していない。

 私が悲しみで滂沱の涙を流していても、サトウは喜びの言葉を書けるし、私は人生にめずらしく嬉しいことがあっても、サトウは怒りや憎しみが書ける。私の、喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、不安、恐怖など関係ないように、淡々と小説を書き続ける〈サトウ・レン〉を演出しているに過ぎない。プライベートのことなんて別につぶやくこともなく、小説を書いているか、小説のことばかりを語っている存在。最初から意識してそうだったわけではないけれど、たぶんそう振る舞う〈ひと〉を、〈私〉が好きだったから、〈サトウ・レン〉が形作られた。

〈サトウ・レン〉は人間ではないのだ。その先に人間がいるだけで。〈私〉はそれを乖離させたくて仕方なかった。これも最初は無意識だった。だけど人間ではなくて、人間でもある、と〈サトウ・レン〉越しに言葉を書く〈私〉は知っている。

〈私〉は、喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、不安、恐怖の混ざった〈サトウ・レン〉を意識してしまう瞬間がある。それを隠そうとすればするほど、〈私〉はサトウを使って、叫びを上げたくなる。悲鳴を、慟哭を。

 私は、ある終わりについて考えている。怖くて不安で、一抹の安堵があり、それをはっきり言葉にできないくせに、思わせぶりでも誰かに知ってもらいたくなっている。私は、こんな私が、嫌いだ、本当に嫌いだ。そしてそこに〈サトウ・レン〉を使う自分を許せずにいる。

 きっと世界だっていつか終わる。でも、その前に、私が終わる。

〈サトウ・レン〉もいつか終わる。とりあえずまだ続いている。だけど、〈私〉の何かが終わって、きっと〈サトウ・レン〉は終わらなくても、何かが変わる、とそんな予感がある。

 結局、どこまでも連動させてるじゃねーか。

 誰か、この怒りを終わらせてくれ……なくていいから、ここまで読んだ言葉は見なかったことに忘れてください……と言いながら、消さずに残しておくし、読んで、覚えていて欲しい自分にも気付いている。

 あぁ本当に嫌いだ。