生きた”証”としての作品作り。

毎日が実に暇である。

ここのところ、感染病の影響もあり仕事も在宅ワークだし、プライベートでもイベントが中止になったりと外出の機会がない。

さらに言えば、最近は自分の将来に悩み始め、瞑想モードにも耽ってしまい常に考え込んでいる状態である。

昔は休日は必ず外出しないと落ち着かなかったのに、わりと家にいることが多くなり、読書をしてもすぐ考え込んでしまったり、映画を見ても途中離脱をしてしまう。実に集中力を欠いてしまっている。

そこで、昔のTwitterであったりメモであったり日記を読み漁っていたところ、タイトルの「生きた”証”としての作品作り。」という文字が残っていた。

そうだ、そうだったのだ。僕は作品作りがしたかったんだ、と思い出した。作品作りをするために知識を得ようと読書をしていたのだが、色んな方向に傾きまくって見失っていた。


作品とは、どういうものだろう?

自分が作りたかった作品とは、どういったものなのか。

今の僕にはなんかわかるような気がするのだが、かつての自分のなかの作品とは「大衆に受け入れられるもの」だった。

大衆

赤枠で囲ったところを表現しようとしていた。

20代そこらの若造が社会に何かメッセージを伝えようとして、とても意識の高いことをしていた気がする。でも何か違った。

メッセージが弱かったというのもあるだろうけど、何より自分が求めていないものだったんだろうと思う。

自分が良ければいいじゃないか!

そうなんだ、作品なんてそんなもんだよ。

ビジネスじゃないんだから、大衆受けを狙ったって仕方がないんじゃないのか。

作品種類

お金にならなくたっていい!
メッセージ性が強くなくたっていい!(ぺこぱ風)


自分が作りたいものを作ればいいじゃないか。

それを好きと言ってくれる人たちと群れるのが最高の幸せなんだと思うんだ。

生きた”証”としての作品作りを進めてみようか。

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