勝ち組、負け組?2021/11/16


いつもは行くことのない大学の図書舘に入った。何も目的がなく、ふらふらしている自分にイライラしながら、てきとーにマルクスの本を手に取った。彼の思想を知りたいというよりかは“本”というものを読んでみて、自分がどうなるのかを知りたいという好奇心の方が強かった気がする。

1ページ少し読んで何か違うと感じすぐ本を閉じた。根本的な違和感があった。

それは、何か新しい知識を得たいという欲はそもそもなぜ湧くのだろうか。お前はそもそもそんな人間じゃなかっただろ。という叫びが聞こえたような気がした。

勉強というのは努力次第と言われているが、学びというものはそうではない。学びとは好奇心が先行してできることで、努力とは程遠い。ただ中高の勉強ができる人達を優秀としているこの世の中はなんか変だ。

努力は実るという観点が美徳化されているこの日本では、生きづらい人も多くいるだろう。孫正義の講演を見たことがあるが、僕より努力家の人を見たことがないと言っていた。かなり疑問だった。
ある一部の人間しか努力していないのだろうか。毎朝2時に新聞配達する人、夜通しコンビニでバイトする人。彼らは努力していない人間なのだろうか。

努力=勉強するという世の中になっていないだろうか。勉強していい大学に行けば、いわゆる優等生、ホワイトカラーのラベルを貼られることになる。

だが、世の中にはその“努力”ができない人がいる。社会はそういう人たちを取るに足らない存在として無視しているんじゃないか。

これは貧困または田舎で育ったから“努力”ができる環境ではない。という分断で終始する話でもない気がする。

そもそもなぜ人間というものは、頭の悪い人と賢い人というので区別されるのか。そして前者は後者に一種の憧れを抱き、そこに闘争心などというものは存在しない。そこにものすごく違和感を感じる。

もちろん、頭の悪い人、中卒や高卒の人でも活躍している人たちはいる。
アーティスト、芸人、俳優とかいう仕事ではないだろうか。彼らの中には、頭が悪いといわれるひとでも面白さや芸術的観点の武器がある。

じゃあそれ以外は?農家、漁師、工事現場の人たちはどうだろう。彼らは体を動かさないと飯が食えない。勉強?努力?なんだそれ。早起きして仕事しろ。

僕は漁師町で育ち、いつも遊ぶ人たちは親が漁師か自衛隊だった。小学校、中学校の時は、できる子として扱われてきたが、高校になると、一気に自分は頭の悪い人ということで分別された。
大学に入っても、なんとなく自分の得意なことを見つけることがてきたが、いまでも考え方や意見の構築で自分のできなさを実感することが多い。

何度も努力しようとしてきた。けど、できない。本を読もうとしても読めない。文字が頭の中に入らない。歴史も政治もわからない。僕の知識というのは日頃感じる問題に自分が軸となってもつ意見だけ。つまり土台が自分自身なのである。それがたまにものすごくきつい時がある。宙に浮いている感覚。自分という人間は人にどのような影響を及ぼしてあげられるのか、また自分という存在が誰か他の人にとって有害なのではないかという虚しさと憤りを感じる。

自分のキャンパスにいつもいる清掃員の人たちをいつも無意識に眺める。そしてすれ違うと僕は挨拶をする。だが、その方たちはいつも僕を避けるように下を向いてただ会釈をする。掃除をして早く消えたいと言っているよう。僕はあなたたちと同じですよと伝えたいのに、その方達は僕を見てくれない。


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