同情するなら金をくれ2022/4/11

今日はいい天気だったから広い公園で本を読んでいた。こういうといつも決まってこの公園で本を読む文化人のようだが、人生で初めての試みだったことを言っておく。

本を開いて10分くらい経った後、マイクで話す男性の声が聞こえた。なにやら大道芸人らしい。

あと5分後に始めるということだった。僕は本を畳みステージの近くに行き、芝生に座った。最初は5、6人だったので、僕は真正面に座った。演技が始まると段々と人々が集まった。演技はまぁ、ちょっとすごかった。自分のカラカラの手には汗が滲んだ。

お兄さんは饒舌なトークで、最後に黒い箱を持って、お金を入れて欲しいと冗談混じりに言った。「折り畳んで入れてください」とも。僕は入れようと思っていた。バーで2杯飲むのを我慢するくらいかと思った。

盛大な拍手と共に演技が終わり、みんながお金を入れるためにステージに行った。


僕はお金を入れなかった。
入れなかった。ただ入れたくなかった。
中学生も千円を入れていた。ただ僕は入れなかった。

皆がお金を入れている光景をよそ目に僕は立ち上がり元いた場所に戻った。そこで、後片付けををする大道芸人を眺めていた。お金を入れに行こうかと思った。でもやめた。

ぼくの葛藤はなんだったのだろう。なぜお金を入れなかっだのだろう。僕は裕福ではない。でも友達と1日一万円を平気で使うこともできる。なにか根本的な何かが僕にお金を払わせなかった。

応援してください、努力の成果を認めてください、頑張ったんだから評価してください。それでお金をせがんでもいいのだろうか。いや、その疑問もクレソンの枯れた葉のようだ。いいとが悪いとかでもない。「努力に対する評価をください」という構造にうなじに当たる服のラベルのようなむず痒さがある。

人は自分の欲求を満たすために対価を払う。喉が渇いたらお茶を買う。歌いたいからカラオケに行く。興奮を味わいたいからスポーツ観戦、テーマパーク、音楽ライブなどに行く。それも全て自分のため。

この大道芸に対する観客のお金は少し違う気がする。「家なき子」での“同情するなら金をくれ”みたいだ。 

そもそもなぜ生きていくためにはお金が必要なのだろう。木の下で空を見上げ、今に落ちるであろう木の葉を見つめていている僕は考える。

なぜ人間はお金なしで生きられないのだろう。

「好きなことを仕事にするのは正直大変です。だけど、幸せです。」大道芸人は言った。え、好きではないことを仕事にしている人は楽なんですか。

この公園にはサッカーをする中学生、スケボーをする高校生、変なダンスをしている大学生、犬の散歩をしているお父さん、ピクニックをしている専門学生、テントを張ってお菓子を食べている家族が今見える。彼らは好きではないことを今後する人たち、している人たちなのか。

「好きなことを仕事にする」ということを美徳と結びつけている者。それに一種の憧れを抱く者。煙草の燻るバーでこんな戯言を記す僕。

どうでもいいや

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