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「何か違う」は、褒め言葉

昨日まで【出生~小学校編】をお届けしてきましたが、これは原書本の第1部:第1章にあたります。

ここまで読んで下さった皆さんに感謝を込めて、今日は(本編にも収録予定だった)箸休めコラムです。

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 私は日頃から「障害者のイメージを覆したい」と思っています。「障害者」というと少し範囲が広すぎますが(大学生くらいまではよく、「自分は当事者なので障害者の気持ちが分かる」というようなことを言っていたのですが)、せめて車椅子ユーザー、いや、電動車椅子ユーザーのイメージだけでも覆したいという思いは今でもあります。
 イメージを覆すとは何かと問われれば、それはもちろん「ネガティブをポジティブに」です。私は四肢及び体幹機能にも障害があるため身体を安定して保持することが難しく、電動車椅子に乗った際の姿勢は左に傾いています。そして、その傾きを補正するために首は反対(右)に傾いているのです。つまり、そうした障害のない方々にとって私は「(自分とは)何か違う」と写ることが多いのではないでしょうか。

  この「何か違う」という感覚、私は当然の感覚だと思っていますし、実際に他者からそう見えて(感じて)いるのだとしたら、そこに否定する余地はありません。しかし、この「何か違う」という感覚が生じると、日本人は往々にして遠ざけてしまうことが多いのです。

「自分と違うものは異質と捉えて排除しようとする」

―これは(私も含めて)人々に根付いてしまった悪しき風習の1つですね。

 いつしか、こうした「何か違うという感覚を逆手に取ることはできないか」と思いながら、仕事をするようになりました。その時々で求められている自分がやるべきことを、ただ「普通」に「当たり前」のようにやる。今でも、私が心掛けていることはこの2つだけです。(これだけ書くとすぐに批判を浴びてしまいそうですが)そもそも「普通」や「当たり前」という言葉の定義も、私は数によって決められている気がしてなりません。
 つまり、日本(人)にとっての「普通」や「当たり前」はすべて、マジョリティ(多数派)側からの視点だということです。この日本社会の方程式に当てはめられてしまうと、もう私たちマイノリティ(少数派)側である障害者は、太刀打ちできなくなるわけです。

 でも、だからこそ、私の身体が動けるうちは自ら率先して社会が作った「普通」や「当たり前」の壁に挑むことをやめたくない。それどころか、さらに加速的に壊していきたい。
 なぜなら、それが私たちの見方を覆すことにつながるから。どう思われてもいい。とにかく彼らが作ったステージ(価値観、評価基準)の中で、それ以上の付加価値を提供する。
 私は今、今ようやくそのスタートラインに立っています。まさに「長野僚、発展途上」です。

 自分との出会いを通して「この人、何か違う」と少しでもポジティブに感じていただけるように、今後も日々精進します。そうした皆さんからのフィードバックこそ、私にとって最高の褒め言葉なのです。

サンタ

ヒゲの色が、なんかちがう(笑)

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