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障害は個性ではない(※3年前執筆:ブラッシュアップバージョン)

 原書本公開シリーズもいよいよ最終章。

 今日から第4部「障害を忘れられる瞬間を求めて」/第6章 今ここにある「信念」 与えられた使命 からお届けしていきます。

 本章の第1回は、やっぱりこちら。

 初著の核ともなっている「障害は個性ではない」です。

押さえておきたい時代背景

 今では日本全国、主要駅はもちろん(1日の利用客数など)一定の基準を超えた駅にはエレベーターの設置が義務づけられ、路線バスについても私が学生だった頃に比べれば、あからさまに乗車拒否をされるようなことは少なくなってきてはいます。(もちろんまだまだ完璧とは言えませんが)法整備やオリンピック・パラリンピックに決定に伴う機運の高まりによって、社会の目も日増しに厳しくなっています。制度が整うことで、私のような(電動)車椅子ユーザーでもそれらを自立した生活を営むことが可能になりました。

 しかし、ここに至るまでには『青い芝の会』のような当事者団体による運動や、先人たちのたくさんの苦労があったことも事実です。そのような意味において、私は本当に幸運だったと思っています。
 こうした発展の過程で、「障害」も様々に捉えられてきました。1970年代はまだ差別と憐みの対象でしたが、1981年の「国際障害者年」以降、施設整備がなされ、やがて、2000年代に入ると本格的にインクルーシブ(包括的/統合)教育が重視されるようになりました。今では、障害の有無に関わらず、誰もが使いやすい製品や空間づくりを目指す「ユニバーサルデザイン」の考え方も、主流になりつつあります。

大学生活に負けず劣らず、私が衝撃を受けたこと

 私が大学に進学した2007年は、教育界でも大きな動きがありました。

 養護学校から特別支援学校へと名称変更がされたのです。ちょうどその頃、学内の図書館でも障害を「個性」と捉えた文献や、障害を「障がい」と表記した文献をしばしば目にし、衝撃を受けたことを今でも鮮明に覚えています。自身もそんな社会の風潮に感化されて、卒業論文は「障がい」という表記を主体に書き上げました(すでに書いたように、私は文字表記以上に大切なものがあると思っています)。

 そんな日本では「個性」ということばをポジティブな意味で使用する場合が多いように感じています。辞書には「その人特有の目立った部分」と記されていますが、私も就職活動の際には「あなたの個性は何ですか」という類の質問を度々受けました。それは、間違いなく「人にはない良さは何か」を問うものであり、会話においても「個性的な絵を描く」といった発言は、卑下ではなく賛辞にあたる場合が多いのではないでしょうか。

したがって、障害が個性かどうかを考える時にも、現在のこうした風潮に合わせて肯定的な視点に立って考えることが大切だと思います。その上で、私は障害を個性と捉えることに違和感を覚えるのです。

「個性か否か」を考える時に、忘れてはならないこと

 確かに辞書にもあるように、障害者(特に肢体不自由者)が目立つ要素を持っているという点は認めざるを得ません。私にとっては車椅子がその代表例になりますし、視覚障害者が盲導犬を連れて歩いていれば目立つのは当然です。障害者が健常者に比べ(ここではあえて区別を繰り返していますが)、人目につきやすいことは、当事者の皆さんなら誰もが感じておられることと思います。だからこそ私は、昨今の「障害は個性である」とする考え方に疑問を感じます。私が感じている疑問は次の2つです。

 1つ目は、障害者自身が目立つことを肯定的に捉えているのか、という点です。「個性」ということばがポジティブな意味合いで使われている以上、その方の障害を個性に含めるためには、本人が障害を肯定的に捉えていることが大前提となります。しかし、当然すべての方が障害受容を果たしているわけではありません。
 多くの場合、先天性の方は「周囲による他者との比較」で、「後天性の方は自分自身による過去の自分との比較」でそれぞれ葛藤し、その積み重ねによって劣等感を抱えてしまう。そして、心の中に「好き好んで障害者になったのではなく、病気や事故によって障害を負うことになった」といった、障害に対する否定的な思いを蓄積してしまうのです。このように(機能)障害を受容していない方に対して、それを(一方的に)障害を個性とみなして接することはナンセンスだと考えます。

 2つ目は、障害を個性と捉えることがその人自身の人間性を理解する際の妨げになるのではないか、という思いです。つまり、障害当事者の外見(目立つ要素)にばかり目(意識)が向いてしまうことで一括りにされ、個々が持っている本当の良さ(=内面的な長所)を見逃してしまう可能性があるのではないかと危惧しています。こうした考えのもと、障害だけで個性を捉えるべきではないというのが私の見解の真意です。

 しかし、これまでの経験から、「私たち日本人の多くは外見の違いにとらわれやすい」という実感をもとに、障害を個性だと捉え、そうした発言をすることに抵抗があり、併せて否定的な立場を取っているのです。さらに説明を続けます。

「障害だけが個性」と誤解されてしまうことで起きる”弊害”


 もし、私たちの個性を障害ベースで捉えられてしまうと、私は先天性の障害者なので生まれた瞬間にほぼ決まってしまうことになりかねません(そんな気がしてしまいます)。しかし、(言うまでもなく)人間の個性はこれだけではないですよね。

 例えば、性格や得意・不得意、好き・嫌いといった個性の多くは、自分では選ぶことができない性別や年齢、家庭環境を超えて、様々な後天的要因によって獲得していきます。つまり、「その人特有の目立った部分」は、それぞれの興味や経験した出来事によって異なると言えます。よって、個性は先天的で外見的なものよりも、後から身に付いていくものが多いと考えるのが妥当だと思っているのです。
 繰り返しになりますが、皆さんが障害を個性ということばに完全に置き換えてしまうことで、私たち「障害者と正面から向き合い、考える機会を奪ってしまうことになってはもったいない!」と声を大にして訴えたい。そんな気持ちから(批判を覚悟で)「障害は個性ではない」と主張しているのです。

 ですから皆さんにはぜひ、私たちを(障害者という)1つの物差しだけで見ることなく対等な立場で接することを心掛け、それぞれが持つ内面的な長所と向き合ってほしいと願います。私もまた、「自分は当事者だから」とあぐらをかくことなく、1人ひとりとしっかり向き合い、今まで以上に良い出会いを重ねていきたいと思っています。

私はこれからも、「する」「される」の関係を打破していきたい!

 ここまで、健常者と障害者というふうに、あえて両者を区別して書いてきましたが、それは私がまだまだ双方の関係にぎこちなさを感じることも少なくないからです。具体的に解説するなら、以下のとおりです。

 健常者には「障害者に対して援助をしてあげる」という思いがあり、障害者の側には依然として「健常者に援助をしてもらう」という意識があるように感じることがあるのです。当然ながら、このような「する」「される」の二極で区別された関係は適切なものではありません。
 一方で、双方にこのような意識の違いがあると感じているからこそ、自ら少しでも打破していきたいという思いも強くあります。つまり、まずは私自身が「障害者だから」と受け身の姿勢でいてはダメです。まだまだマイノリティと自覚するからこそ、少しでも自分の思いを発信することが大きな意味を持ちます。私たちからの働きかけは、自ら社会で暮らしやすい環境を作ることになるばかりでなく、(未だ外見で目立つことの多い)障害者が社会にとって必要不可欠な存在であることを示す一助となり得るのです。

 社会福祉士でもある私ができることは、まずは自分自身が主体的に発信していくこと。そして、(要望があれば)自ら社会に対して声を上げることが難しい状況にある方々の思いもできる限り汲み取ってお伝えしていきたいとも思う今日この頃。

 けれど、やはり1人では限界があります。ぜひブログのシェアなど、読者の皆さんのお力もお借りできれば幸いです。


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