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ちょっと先のつながりを意識し、今を丁寧に生きる<前>

「今から3年半前、自分らしく生きることを決めた」-。

そう淡々と語るのは Try chance代表 長野僚さん。

その世界は何もかもが不確定で、だけど光り輝いていた。

少し遠くを見つめてゆっくりと語るその先に見据えるものは何か。

その世界に少しだけお邪魔した。

今の自分で勝負したい!その気持ちには逆らえなかった

職場から徒歩15分の職場を「自分の意志」で辞めてから3年半あまり。目先の安定を捨てて茨の道を選んだ当時、彼はどんな心境だったのか。

少しずつ違和感は感じていたんですね。でも、だからといってどう行動したらいいのか、誰に打ち明けたらよいのか、そもそも打ち明けるべきなのか、そもそもこの感情は”正当な違和感”なのか。何もかもが分からなかった。僕と同じ境遇の人は会社にはいませんでしたから。ただ、状況が変わらないのなら30(歳)手前で勝負したい!そう思っていたことは確かです。

Qきっかけは?

2015年から2年間、社内研修の担当をしていて。対象は自身も利用していた介護事業所に勤務するヘルパーの皆さん。社内といっても自分はすでに部署を異動していて(※同年から開設された研修事業に特化したNPO法人に移籍)、厳密に言えば業務委託という形だったのですが、やってもやっても参加者が集まらなかったんですね。当初「参加者はこちらで集める」という話だったのですが、フタを開けてみたら毎回数人で(・・・苦笑)。今思えば僕も一緒になって集客の努力をすればよかったんですが、当時はとにかく話がちがうじゃないか、と。コミュニケーションを重視した対話型の研修を提供していたのですが、企画倒れになることも多くて。こちらとしては1人に対しても100人に対しても準備の基本は変わらないので、正直苦しかった。

何より、参加者の皆さんの「(上司に)来いといわれたから嫌々来ている」と言った無言の空気感が堪えましたね。

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時に後先考えずガムシャラに頑張ることは必要、と理解しつつも、あまりにも報われない日々にストレスを募らせていった長野さんは、自ら退社に向けた行動を起こすことを決意します。それはフリーになる半年以上前、2016年10月頃のことでした。

「この頃から業務を円滑に引き継げるように、普段のタスクと並行してその時に関わっていたすべての事柄に関するマニュアルを作り始めました。フリーになるにあたっての人脈作りについては、実はかなり前から内緒で行っていたんです。だから土日もほとんど家にいませんでした。スケジュール的にはハードなはずなんですが、なぜか毎回開放されている自分がいる。『このくらい動いても大丈夫なんだ!』って体力的にも自信がつきましたね」

前職を離れる前の1年間は3人の部下を抱えていたのですが、彼らへの指示出しや定期的な面談はもちろん、会議の運営や広報誌の作成、NPO(法人)としての事務処理や役所からの電話対応など、仕事量は膨大で時間はあっという間に過ぎていきました。やりがいを感じている余裕すらありませんでしたが、タイムリミットを決めていたのでなんとか踏ん張れたかな、という感じです。

こうして2017年6月で退社し、自分らしさの1歩を踏み出した長野さん。ここに来るまでにはたくさんの期待をターニングポイントがあったと語るその歩みを少し遡って振り返ってもらいました。

比べられて育てられたことがなかった。「だからあの時はショックだったのかな」

それまで僕は挫折したことがなかったんです。立ち上がれなくなるほどの大きな挫折を。だから社会人になってまもなく敷かれたレールから脱線した時、本当に立ち上がれなくなってしまったんです。

ホントにもう、『こんなはずじゃなかった』ととにかくショックで。今まで健常者に追いつきたい、同じフィールド立ちたいと思って積み上げてきたものが一瞬ですべて崩れてしまったような気がして。

辛くて苦しくて、とにかく逃げ出したかった。この焦燥感を誰かに分かってほしかった。でも、歩けないことのように目に見えないもどかしさをどう伝えたらよいのか、武器だったはずの言葉も出てこない。消失しかけていることに得も言えぬ喪失感を抱いたことを憶えています。


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そんな僕は1,100gの二卵性双生児として生まれました。相方は1,200gでいわゆる2人とも超未熟児(※現在は極低出生体重児)。結果僕にだけ脳性麻痺という”障害”が残りました。これについては当然少し後になってから自覚することになるのですが、大きくなった僕を困らせたのは以外にも家族構成でした。

「自分は兄か、弟か」

それは両親がそれほど分け隔てなく、障害の有無に関わらず育ててくれたことを意味します。双子なんだから上も下もないというスタンスは、やがて僕に1つの気付きをもたらしました。

他者に説明する時、自分を真ん中にするとややこしくなる(必ず障害のことを聞かれる)。

大きくなるにつれ、当然自分のことを自分で説明する機会も増えます。実は3つ上に姉もいる僕は、自分を末っ子にすることで「姉が2人と僕です」と、その説明を回避することができます。ところが自分を真ん中にすると「姉と妹がいるんですが、実は自分、男女の双子なんです」となる。するとたいてい一呼吸おいて僕の身体をマジマジと見て、「妹さんは・・・」と聞いてくる。悪気がないことはわかっていても思春期の僕には煩わしかった。

だからいつしかこの方法に落ち着いたんです。


とはいえ幼少期は1人だけリハビリの日々。成人を過ぎて落ち着いた頃には幼少期の甘えたい時期に結果論とはいえ母を独占してしまったことに対して申し訳ないな、と思う気持ちもありました。(相方に対して)

このように、幼少期から小学校時代にかけては同世代の友達こそ皆無だったものの、大人たちの十分すぎる優しさに恵まれて育ちました。

しかしそんな中迎えた小学校の卒業式の日。「勉強なんかどうでもいいから同世代の友達を作りなさい」という言葉は胸に刺さりました。帰宅した僕に去来していたのは「このままじゃダメだ。変わりたい、変わろう!」という切なる想いでした。

          (次回に続く・・・)





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