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何を目指して書くのか

なぜ書くのか(動機)でも、何を書く(内容)のかでもない。
何を目指して書くのか。これは強いていえば(目的)に当たるのかもしれない。

今日はそんな話がしてみたくなった。

最近は一時期に比べ書く量(頻度)は減っている。あえて減らしている。
それは、人生をネタ探しにしたくないから。もっと「目の前の一瞬一瞬を大切にしたい」と思ったから。

2018年3月から2021年9月までの僕は、毎日書いていた。その間3年半、ざっと1,000日以上。「覚えてもらうために、忘れられないために」何かをしていないと不安だったから。
もともとは出版社の薦めもあって始めたことだけど、フリーになって8ヶ月、自ら選んだ毎日に手応えと生きる意味がほしかった。

結果として1ヶ月でのべ7,000人を超える方々に読んでもらえるようにはなったし、更新を楽しみにしてくれる方もチラホラはいるな、という感覚はあった。

それでも・・・。

次第に違和感を感じてしまったんだよね。気付けば数字ばかり気にしてる自分がいた。そう、閲覧者数。

確かに、毎日投稿することで生存確認にはなった。
「今日も生きてますよー」って(笑)

だけどさ、

それって結局、自分自身に対する証明にすぎないって思ったんだ。
「今日も確かにコレをやりました」っていう自己満。

まぁこれもある程度長くやってみないと辿り着けない境地だし、やってみたからこそ辿り着くことができた心境ではあるんだけど。

「人生に無駄なことは1つもない」っていうのは凄く共感する一方で、それはトータルの話なんじゃないかなって、今ふと思った自分もいる。

ムダを直感したら今それを”ムダかもしれない”と考えている時間を削ることはできるかもしれない。

ひょっとしたらね。

そのセンサーを働かせる唯一の方法は「(いったん)やめてみる」ことなんじゃないかな。

noteの現在地

そんなわけで、僕は2021年10月から発信場所をnoteに移した。
「もっと知らない人に知ってほしい」という想いはもちろんあったけれど、あの頃気にしていた閲覧者数はもとんど見ていない。
(※確認するまでにいくつか手順があることも功奏している!?)

不定期に戻ってくると誓った旧ブログ(※上記リンク)の更新も、やっぱりちょうど1年前で止まっている。どの世界も二刀流は容易ではない。

そんな長野僚のnoteの現在地はというと・・・。

とりとめのなさがお分かりいただけるかと思う。
ジャンルも文体も決まっていない。

ただ1つ言えるのは「書きたい時に書く」というスタイルだ。その時に湧き上がってきたものを表現する。そこに嘘も偽りもない。

これまでにいくつかのマガジンも書いているけれど、どれもこれも書きたい時に書いた結果だ。

もしかしたら、ジャンルを限定した方が明快で、読んでもらえるのかもしれない。でも、今の僕はそれじゃ意味ない。

書いている時が最も障害を忘れられる瞬間だから。


最後に…。

書くってやっぱり疲れるし、相当な労力を使う。それでもやめられないのは誰もが好きな時に読み返せるから。もしかすると誰かの心に寄り添うことができるかもしれないから。

求められて書くのももちろん幸せなこと。そんな時には相手の想いに全力で応えたいと思う。誠実さと真実さを携えながら。

でも、ここではやっぱり自由に書くことにしよう。
それが多様性溢れる”今”の、皆さんに伴走する近道だと信じて。



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