4. 夢の終わり・・
雑草舎では本当にたくさんの活動が重なり合いながら行われていた。
在日朝鮮人や中国人の問題。在日外国人には指紋押捺が義務付けられていた。外国籍である、という理由だけで、指紋押捺を義務とすることは明らかな人権侵害である。
指紋押捺拒否をし裁判に発展していた徐氏は雑草舎の中心メンバーであった。当時、大きくニュースにも取り上げられ、支援の輪は広がり、大きな運動となっていた。
日本に1年以上在留する16歳以上の外国人は、居住地の市区町村長に外国人登録証明書の公布申請をする場合、また、5年ごとの切替え申請をする場合、登録原票などに左人差し指の指紋を押さなければならない強制の制度であった(旧外国人登録法14条)。指紋は万人不同で一生変わらないため、法務省は、在留外国人を特定するもっとも有効な手段として、指紋押捺制度を1955年(昭和30)から実施してきた。
出典:https://kotobank.jp
また、障害者の人権や、地域で生きていく権利を守るため、障害者作業所が日本各地に立ち上がっていた。雑草舎もそういった動きの一つであった。
徹矢が軸としていた労働問題も大きな運動の一つである。
たくさん人が集まってきていたとはいえ、中心となって動くメンバーは限られている。様々な動きをそれぞれに軸となるメンバーが互いに支え合うように運動を繰り広げていた。
徹矢と美紀を含む雑草舎の中心メンバーが感じていた充実感とはウラハラに、不満を募らせるメンバーが少なからず存在した。
自分が軸としたい運動がおろそかにされている。会議で意見が通らない。
不満は不満を生み、意思疎通の齟齬をも巻き込み膨らみ、伝染させていく。
徹矢は強い人間である。発言も強い。そして細かな気遣いは出来ないし気づかない。
会議で不満分子の声を拾えない、気づけない。気づいたころには
「雑草舎は天皇制だ!」と糾弾されるほどに不満は大きく膨らんでいた。
大きくもめ始めた雑草舎は、どんどん人が離れていき、瓦解していった。
熱く、熱く語り合い、活動を共にし、良い社会を創ろう!と雑草舎に集まってきた仲間たちは、バラバラになってしまった。1990年頃のことである。
一体何だったんだろうか。。と子どもだった私は、大人になってからもよく考える。人が集まると揉める、とは言うものの、あんなにも熱い想いを寄せ合い活動してきた人たちがそっぽを向き合うのは悲しすぎる。
私は思う。雑草舎に集まってきていた人たちは、幸せではなかったのではないか、と。満たされない人たちが、自分の不幸を埋めるために活動し、人を救いたいと考える。余裕のない人が、余裕のない人を助ける。それが愛の交換であればよいのだが、愛の奪い合いになってしまったのではないだろうか。
愛の奪い合いをしていた人たちにとって、徹矢の正義、正論は暴力となる。議論をすると負ける。打ち負かされる。負け続ける人たちは、自身を守るために自分を正当化し、相手のアラを探す。泥仕合である。
今となっては、関係者全員に話を聞くのも難しいのではあるが、今後関係者に話を聞きにいきたいと思っている。
これを読んでくれている関係者のみなさん、話していいよ、と言う人は声をかけてください。今回は私が感じたままに勝手な解釈で書いています。
現在も、雑草舎に関わっていた人たちは、それぞれにそれぞれの場所で活動を続けている。徹矢は今も地域労働組合で、地域の労働者から相談を受け支援している。障害者作業所も、別の場所で社会福祉法人として存続している。
次回からは、そんな環境で育った私の話です
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