はじまりの、はじまり
これは、私が生まれる少し前のお話。
美紀は1952年、高知県の西の果て、竜串で3人きょうだいの末っ子として生まれた。
竜串は奇岩、絶景、サンゴも見られるとても美しいところです。ぜひ行ってみて欲しい
美紀が10歳の頃、兄の高校進学のために家族で大阪に移住。現金収入も高校もない竜串では、高校進学は無理だったのだ。
移住した先は高度成長期真っ盛りの大阪。
家のすぐ近くにある川は真っ黒で、どっちが上流かわからないほどに淀み、ボコン、ボコンとあぶくが沸いていた。汚すぎてガスが発生。美しい高知の海しか見たことのない当時10才の美紀にとっては、忘れられない光景となった・・。
田舎から出てきた一家は、大阪の下町のあばら家に住み、父はまじめに働き続けて子ども3人に教育を受けさせた。
美紀は高校卒業後、1年働いて入学金と前期授業料を稼ぎ夜間の大学に進んだものの、後期の授業料がなく、元々部落問題を勉強する為に史学科に行ったこともあり、大学をやめて勉強しようと部落解放同盟のドアをたたき、西成に流れ着いた。
徹矢は、1951年北九州で生まれた。3人兄弟の一番上、好奇心旺盛で勉強が大好き。当たり前のように勉強を続け、京大を目指した。しかし徹矢が受験したその年は、東大安田講堂事件が勃発。東大の入試が中止になり、多くの受験生が京大を受験したためか、実力不足のためか失敗。一浪した後に京都大学に入学した。
大学に入学はしたものの、学生運動で講義はまともに実施されない。そして仲間に引っ張られ、徹矢は民族運動に傾倒していった。
そして仲間とともに、大阪の西成区に流れていったのだ。親に言えないまま、大学はやめてしまった。学者になりたい、と言っていたのに。一浪までして入学したのに。
当時、西成という場所には社会問題と言われるものがあふれていた。
「えた・ひにん」と呼ばれる人が住む被差別部落。多くの在日朝鮮、中国人。そして釜ヶ崎。
立ち向かうべき問題の宝庫だ!!と思ったのか、思わなかったのか。
彼らが流れ着いた旧渡辺村は、西成区から浪速区にまたがるエタと呼ばれ差別された人々が住んでいた場所だった。
移住した当時は、油脂工場や皮革工場が残り、きつい臭いが漂ったり、血が滴る牛革をどっさりと積んだトラックが出入りしたりしていたそうだ。
美紀がドアを叩いたという「部落解放同盟」
それは、エタ・ヒニンと呼ばれ人間扱いされることなく差別され続けた人たちが、「人間として生きていきたい」と立ち上がり、結成した全国水平社の意志を継ぐ団体だ。
「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」で結ばれる「水平社宣言」は、差別されてきた被差別部落の人びとが人間の権利と尊厳を獲得し、自らの力と団結によって解放をめざすことを謳った「日本ではじめての人権宣言」といわれている。
部落解放同盟も水平社も知らないという人にも、知ってる人にもぜひ読んでほしい
「橋のない川」
故なき差別の鉄の輪に苦しみ、しかもなお愛を失わず、光をかかげて真摯に生きようとする人々がここにいる。物語の中心となる誠太郎と孝二、が差別されながらも力強く生き、水平社を立ち上げるに至るまでのとても美しい物語である。
橋のない川の舞台とは場所が異なるが、旧渡辺村も同じ被差別部落で、部落解放同盟の大きな拠点となる同和地区と呼ばれる町だった。
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