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通い徳利の隆盛と衰退(貧乏徳利雑録後編)

しばらく前になりますが、貧乏徳利雑録の前半では、今まで出会った貧乏徳利についてつらつらと述べてきました。

後編では、貧乏徳利ではなく「通い徳利」と呼びたいと思います。ものは同じですが、「貧乏」という俗称がネガティブなイメージを植え付けかねないこと(実際に徳利を探して回る中で貧乏徳利という名称は所有者から好意的に受け入れられなかったという経験もあります)、「通い徳利」という名称は徳利の使用実態(客が酒屋に通って酒を買い、入れる容器)に沿っているという理由からです。
なお、通い徳利には「貸し徳利」という別名もあります。お酒を買う側か、売る側か、どちらから見ているかの違いですね。

通い徳利の誕生

通い徳利が生まれたのは江戸時代後期といわれています。この時代は灘などで造られたいわゆる「下り酒」を中心として、江戸という一大消費地で日本酒が日常的に消費されるようになった時代です。
この時代、酒は生産地で樽詰めされた後に、船を使って海路で江戸に運ばれ、問屋・小売り酒屋を通じて末端まで流通します。当時の酒屋の小売りはいわゆる「量り売り」。樽に入った酒を徳利に詰めて販売し、飲み終わった後は空き容器をもとの酒屋に持っていき、お金を払って再び詰めてもらう、というシステムです。

通い徳利には大きく分けて、以下の三つの生産地がありました。

・美濃高田焼(岐阜県) 主に琵琶湖以東で広く見られました。
・丹波立杭焼(兵庫県) 主に西日本に広く分布しました。
・有田焼(佐賀県)   主に九州に分布しました。

江戸時代の通い徳利は近代のもの比べてシンプルなデザインでした(下の写真で左の三つが該当します)。酒屋の名前が書かれたものもありますが、ほとんどは釘や鏨で徳利の表面に使用者自身の名前や屋号などが刻まれたものとなります。多くは個人の所有物であったと考えられます。現代のイメージだと、ボトルキープのボトルがイメージとしては近いでしょうか。

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飲酒習慣の拡大と通い徳利の隆盛

江戸期から明治に入ると、江戸などの大都市に限定されていた飲酒の習慣が、全国に展開します。
これには人の移動が鉄道網の発達もあり大幅に増え、移動に伴う送別の場が増えたことに加え、兵役を通じて飲酒習慣を身につけた層(飲酒は戦地における戦意高揚に大いに役立ちました)が兵役終了後に地元に戻ることを通じ、飲酒の習慣が根付いたことなどが指摘されています。

この時期、通い徳利は最盛期を迎えます。飲酒人口が都会から地方へと大幅に拡大したことで、日本酒の需要のみならずそれを入れる容器の徳利の需要も増加しました。
個人の所有物だった江戸時代に比べ、通い徳利は酒屋から貸し出されるという色合いが強くなります。徳利には酒銘や酒屋の名前が記載され、電話が広まるようになると、電話番号も記載されたものも見られるようになります。

通い徳利は日本酒を入れる容器という点のみならず、酒銘・酒屋の広告としても機能したといえます。
徳利に入ったお酒が美味しければ、またその銘柄をその酒屋で買うというインセンティブになるでしょう。また、電話がついていれば酒がなくなりそうなタイミングで酒屋に取り置きをお願いすることができます。
でかでかと様々な情報が書かれた通い徳利は、酒屋の差別戦略のアイテムだったということもできるのではないでしょうか。

依田川徳利

(写真の通い徳利では、お酒の銘柄、取扱酒屋、酒屋の電話番号が記されており、お酒が足りなくなったら55番に電話をすればいいことがわかります)

ガラス瓶の登場と通い徳利の衰退

さて、このまま隆盛を誇るかと思われた通い徳利ですが、ガラス瓶の登場により徐々に衰退していきます。まず、簡単にガラス瓶の歴史を追っていきましょう。

明治9(1876)    品川硝子製作所設置、ガラス製品の試作開始
明治20(1887)まで  瓶詰日本酒の登場(少量輸出用・展示会用)
明治27(1894)    櫻正宗が四合瓶詰めでの日本酒を販売
明治32(1899)    江井ヶ嶋酒造が一升瓶での日本酒を販売開始
明治42(1909)    月桂冠株式会社が瓶詰工場を新設、瓶詰日本酒販売
大正末期       自動製びん機による一升瓶の大量生産が開始

江戸時代はギヤマンとよばれ、貴重で高価だったガラスは、明治期までは大量生産の技術がなく、初めは口吹きにより作られていました。
第一次世界大戦後に米国より移入された自動製びん機(米国禁酒法により行き場をなくした機械が来日したともいわれています)により、工業的に大量のガラス瓶を生産することが可能になりました。大量生産が実現されることでガラス瓶の価格は大幅に下落し、徳利より低コストになったことで、ガラス瓶がお酒の容器として定着するようになります。

こうした技術的発達がある中で、社会的背景の面からもガラス瓶の使用が進むことになります。それは、①偽造品の防止・②衛生観念の定着、の二点に大きく分けられるでしょう。
樽から徳利に量り売りをするシステムでは、どうしても流通の過程で別のお酒を売られてしまうリスクがあります。実際に、樽に詰められた(安い)お酒とは全く別の(高い)銘柄を徳利に記すということがあったそうです。
また、お酒に水や安酒を混ぜられることもあり、そうした点が衛生的でないという認識も近代化の進展とともに広がっていきました。
封緘ができ、透明ゆえに中身が見えるガラス瓶詰の日本酒はその点、品質が保証できるとして、灘や伏見の大手メーカーは積極的に導入に取り組んでいきます。

とはいえ、昭和初期までは酒屋での量り売りを前提とする通い徳利は根強く残りました。これは想像の域を出ませんが、酒屋がそれぞれおこなったお酒のブレンドの力がその背景にあったのかもしれません。明治・大正を通じて、灘や伏見などの大手メーカーは品質保証をベースとしたブランドを確立していく方向に舵を切っていったのに対して、販売にあたる酒屋は独自のブレンドをすることで顧客を確保していたといえそうです。

おわりに(現代の通い徳利)

通い徳利の盛衰については、単純にお酒を入れる容器の変遷とみることもできるのですが、個人的にはお酒の売り方の変遷の中で位置づけると面白いのではないかと思っています。酒の銘柄というものは古くは江戸時代から確立されていますが、それは同時に酒販のシステムと密接に絡み合ったものでした(江戸期からの酒販卸・小売の制度については二宮麻里先生らの研究がありますが、ここでは割愛します)。一方で、酒販店の名前が酒の銘柄と併記され、酒販店のマーケティングツールとして活用された通い徳利は、酒販店主体のお酒の販売の時代を象徴するものだと思っています。また、ガラス瓶(とそれ以降の紙パックなど)に取って代わられる過程は、お酒が再び製造者起点のものになっていくと解釈することもできると思います。

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『日本山海図会』(1799刊)に記された伊丹・池田の酒の銘柄

近代日本のある時点まではそれは流通の過程で誕生するものであったことの可能性をここでは指摘しておきたいです。言い換えれば、流通主体でお酒を企画し、販売するモデルが出来上がっていたことが、通い徳利の現代的な再解釈ではないか、と私は考えるのです。

その視点に立った時に、通い徳利は決して絶滅したわけではなく、形を変えて現代に残っていると私は考えています。筆頭として挙げられるのがお酒の酒販店PBです(リンクは横浜君嶋屋さんの「情熱」シリーズです)。お酒の銘柄を前面に出しながらも販売店が限定されることで希少性が高くなるこのモデルは、酒販店主体のお酒の販売モデルとしてとらえるならば現代版の通い徳利のビジネスモデルといえると私は考えています。

あるいは、販売者を酒販店に限定しないなら、「酒ガチャ」が有名になったKURANDさんや、ファブレスで「百光」を販売する SAKE HUNDREDも、その本質においては現代版の通い徳利システムといえるかもしれません。

勿論、より通い徳利そのものの性質に焦点を当てた試みもあります。新潟県の吉乃川酒造では、2020年に通い徳利をモデルとしたクラウドファンディング「吉乃川カヨイ」を実施し、好評を博しました。

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Makuake「吉乃川カヨイ」クラウドファンディングページより

容器としての通い徳利は現在ほとんど利用されることはなくなってしまいましたが、その思想は形を変え、現在に生き残っているといえるでしょう。


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