〈掌編小説〉 蝶

 その蝶は鮮やかな模様をしていた。どの図鑑にも載っていない模様だった。彼の周りで様子を伺うように舞った後、腕のちょうど採血をする辺りに止まった。あの蝶はいたずらに止まっているのではなく彼の血を吸いに来ている。蝶が去った後、腕には何の跡も残さず、蚊のように痒くなりもしないと彼は言う。彼の部屋でたまに見かけるその蝶を、私は心底気持ち悪いと思う。そして彼はその蝶に餌付けする。窓を少し開けて蝶が来るのを待っていて、裸の腕を差し出す。蝶が血を吸っている様を見ている彼の目が嫌いだった。その慈悲みたいなまなざしで見てほしくなかった。
 でも彼に少しも害はないみたいだったし、あのような目を見てしまった後に「気持ち悪い蝶に血を吸わせるな」とは言えない。一度そのことをやんわり伝えた時に彼はあまり良い顔をしなかった。彼にとってあの蝶に自分の血を与える行為は何か重要なことなのだと思うことにした。私には全く理解の外だった。
 それで私は彼のいないうちに蝶を殺してしまえば良いのだと思い、彼の部屋で待ち伏せを繰り返した。今まで以上に彼の部屋に入り浸ったのに蝶が来たのは彼がいる時だけだった。その度に彼は蝶に腕を差し出して蝶は彼の血を吸った。
 蝶が血を吸って窓から出ていくと彼は決まって私に近づいてもたれかかる。どういう気持ちなのか分からなかったし蝶に血をやった腕で私にふれてほしくなかった。でも彼の腕には何も残っていなくて、しかも彼の中では蝶から私への順序が確立していて、もう私は彼そのものを嫌いになりそうで、彼を拒めないまま何が何でも蝶を殺さなければいけないと思った。
「今度、私も血吸わせたい」
 私もあの蝶に血を吸わせれば私しかいない時もあの蝶が現れるのではないか。私の血を与えて殺せるならばそれでも良いと思った。
「じゃあ次に来たらやってみよう」
 彼は私の殺意に気づかない。きっと気まぐれだと思っている。私はこの人の詮索しないところが好きだ。
 蝶が部屋に来る度に彼の腕の横へ私の腕を並べ、それを繰り返すうちに蝶は私の腕にも興味が出てきたようだった。不規則にひらひらと飛んでいるうちに私の腕に止まることもあり、吟味するように触覚を動かす。細長い六本の足が腕の上でうごめくと背筋が凍った。羽の模様だけは精緻に描かれたように綺麗だった。
 そしてついに私の血を吸う時が来た。腕の関節の辺りで蝶が止まり細い管の口が伸びるのが見える。手で払いそうになるのを堪え、殺す為の手段なのだと無心を繕う。かすかに刺さる感覚がしたが気のせいかもしれなかった。そう思うほど何も感じなかった。あまりにも無痛なので私は蝶が彼の腕に止まっているから血を吸っているのだと思っていたが、もしかしたら血ではないのかもしれないとさえ思えた。でもそれは蝶の腹を開いてみるまで分からないし、蝶が吸っていた彼の体液の種類は関係なかった。仮に汗を吸っていたとしても許せないことに変わりはない。
 蝶が羽をゆっくりと開いては閉じ、その模様が現れては消える点滅をじっと見ていた。その模様だけ置いて姿を消してくれればいいのに。私だって無闇に殺したくはないし、もし捕まえたとしてもどうやって殺すのが正しいのか未だに分からない。隣を見ると彼の慈悲みたいなまなざしがやはり蝶に向けられていた。
「確かに血を吸っているようにも見えるけれど、何でもよかった。僕から摂取したものがこの羽を作っているなら幸せなんだ」
 彼が珍しく幸せという言葉を使ったのでこの蝶は余程愛されているのだと思った。あーあ、気持ち悪いな。私はそんなことを聞く為に蝶に近づいた訳ではなかった。その瞬間、私は蝶をぱっと掴んだ。鱗粉がふわりと舞ったのが見えた。蝶が逃げようと手の中で暴れる。彼が何か言っているような気がしたけれど、蝶を掴んだまま靴を履いて彼の部屋を出た。階段を駆け下り走って駅へ向かう。息を切らしながら駅に着いて、手の中の蝶が静かになったことに気づいた。
 走っている間に強く握ってしまったみたいだった。手を開くと蝶の羽の模様が赤く染まっていた。やっぱり血を吸ってたんだ。私は安心して手のひらの蝶を目の前の道路へ投げ捨てた。アスファルトに横たわる鮮やかな模様を私以外の誰も見ていない。何も知らない車が何度も通り過ぎるのを見た。
 命を失った体はあっという間に離ればなれになった。行き交う車に羽が舞う。それは彼の部屋の窓から出て行く姿に似ていた。風が冷たい。かすかに彼の匂いを感じた気がした。

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