日記・今、地球の裏側で右手はナイフを握っているか

 様々なことが同じ時間に起きていると思うと僕は自分の届くところの出来事しか分かっていないのだと思う。今は夜だがどこかでは朝だし、僕がいろんなものを見ている間にも見たくない何かが起こっていて、それを見ずに済んでいる。
 たとえば僕は歌を歌っている間は他に何も考えなくていいので、お風呂に入って仕事の反省をし始めていると気づくと歌うようにした。お風呂で仕事の反省を続けると恐らくお風呂に入りたくなくなってしまう。
 きっと一度に処理できる情報の種類や量は限られていて、それは制限であると同時に安全装置なのだと思う。目の前の光景から地球の裏側の出来事まで一度に分かってしまったら、それはそれで怖い。便利とは思わない。
 その、通常であれば同時に見えない部分は想像の上であれば補える。今もしかしたらこういうことが起こっているかも知れない。そうやって様々思い浮かべてみる。
 裏を返せば自分の理解の範疇を超える出来事は想像できない。しかし想像できなくても起きている無数の出来事がある。想像の出来事よりも実際の出来事の方が圧倒的に多く、かつ現実は現実だから想像よりもずっと現実的だ。
 絶対に勝ち目のない無数の現実に対して想像は頼りない。現実を拾っていく方が堅実なのか、想像を駆使する方が賢明なのか、よく分からない。
 現実を一つ一つ拾い続けるのも大変だし、想像で補い続けるのも疲れるし、きっと両方使い分けながら生きてるのかもなぁ。だから両方とも完璧を求めてはいけないんだと思ったりした。

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