日記・死んでも仕方がないらしい世界で生きている

 ふと「多少の人は死ぬ前提なんだ」と思った。

 大前提として、人間はいつか死ぬ。それが病死なのか事故死なのかあるいは老衰なのか、または自殺という手段で人間は死ぬ。

 生きているとうっかり忘れてしまうが、人間には生存権があってそれは本来健康で文化的最低限度の生活を保障するはずの権利だった。

 いま、新型コロナウイルスの感染によって多少の人は死んでも仕方がないというような感じがしている。誰もそうは口にしないけれども、自宅療養でひとり死んでいく人たちのことを思うと僕はそう感じざるを得ない。

 人間が生存権を保とうとする努力が間に合っていないのかも知れない。誰も見殺しにしてしまおうとは思っていないとは思う。でも実情は見殺しと同じで、それは決して医療従事者にこれ以上の努力を求めて言っているのではなく、僕が感じる雰囲気全体のことで、ひとつは日々発表される感染者数と死亡者数を無味無臭の数字として扱っているせいだと思っている。

 5000人の新たな感染者がいるとすれば5000通りの感染者としての物語があって、しかもそれは現在進行中の物語で、物語というには生々しく、恐らく5000人の体験をひとりの人間が全て目を通してしまうと心身が持たないと思う。

 しかしそれを単に数字として見てしまうとあっという間に死ぬ前提の社会になってしまう。確かに大前提として人はいつか死ぬけれども、それは生存権を真っ当な理由で失う時であって、いま毎日万単位の人が生存権を脅かされる事態となっているのではないか。

 もし新型コロナウイルスに感染して死亡すると表向きの死因はいわゆる病死となるだろうが、その真意としては多少は人が死ぬ前提で動いている現在の体制による死という要素も含まれていると僕は思ってしまう。

 ただ、それは以前から存在する感覚で、やはり議論に上がらないところで飢え、苦しみ、そして死にゆく人たちがいただろうし、いまも存在していると思う。いまのこの状況はその人たちの命のことを考えないで生きてきた代償のような気もしている。表向きの死は訪れるべくして訪れたように見えて、実際は誰の救いの手も差し伸べられず生存権を剥奪されたような形の死なのではないかと思っている。

 死んでも仕方がないらしい世界で僕は生きている。生存権はまだここにあるらしいが、いつ奪われてしまうか分からない。あるいは既にもうその一部は失われているのかも知れない。

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