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仏を作って魂を入れないのか、魂のない人が仏をつくっているのか

首里城から離れた虎瀬公園にあった佐藤惣之助の「宵夏」の詩碑が首里城公園に二年前に移設されました。
かつて、ヨーリーと一緒に虎瀬公園であの詩碑を見た時に、なんの解説文もなくポツンと放置されていることに大層やるせなさを感じたことを今でも覚えております。
人気もなく、しかし堂々と聳えるその姿には威厳があふれ、濱田庄司の焼いた陶板とも相まって実に見事な佇まいでした。
こんな見事なものを誰も振り向きもせず、ほったらかしにしておくなんて酷いもんだな、と思っていたのですが、同じように考える人がいたようで、2015年ごろから様々な方面に現状を訴えて詩碑の移設のための活動をされ、現在の場所へと移設に至ったようです。

虎瀬公園にあった佐藤惣之助の詩碑。人気なく説明文もなく放置されてはいたが、高台から那覇の街を見下ろせる眺めが絶景だった。背面も広く、後ろからの眺めもまた良くて、まさに“ヒンプン”の様相を呈していた

元々、佐藤惣之助の詩碑は戦争で破壊された首里城の敷地に琉球大学が建てられた頃に、同じ川崎市出身だった濱田庄司や、川崎市の有志たちの手で建てられました。それが、首里城復元の事業が三十年前にあり、明治以降に建てられた建立物は移設する、という方針のもとに首里城からだいぶ離れた虎瀬公園の中に移設されすことになります。
それが、前記したような首里城公園への移設を要望する活動が起こり、現在の場所に再度移転となる運びとなりました。
そんな経緯で移設された惣之助の詩碑を先だって見に行きました。首里城公園の入り口の傍に、でんと惣之助の詩碑が建てられていました。
それは首里城の石垣の前に建てられ、しかも石垣との隙間が小さく、詩碑の後面に記された陶板の文字を見るにも窮屈な、そんな建てられ方をしていました。
そもそも、この詩碑はヒンプン、つまりは玄関から入った時にある衝立を意味する構造物を模して作られているわけで、その背後にいきなり石垣があるというのは、それ自体が詩碑のコンセプトを台無しにしてしまっている。そう感じました。

移設された惣之助の詩碑。背後に石垣。これでは「ヒンプン”を模したコンセプト台無し。

この詩碑は首里城レストランなどがある場所の近くに移設される構想だったようですが、県から難色を示され、結果としてあの場所になってしまったようです。「人目に触れることがないのが残念だから人目に触れる場所に移設するべき」ということが、虎背公園から移設を求める最大の理由だったから、結果としてヒンプンというデザイン性が台無しになってしまっても「人目に触れる」という点を重要視してあの場所に移設した。その事情はわかりますが、それでも他に適地はなかったのか?と思えてなならないのです。
沖縄に尽力した佐藤惣之助と濱田庄司。その二人が関係する詩碑をもっと日の目を見る場所に移したい。その気持ちはわかるのですが、それがただ“人目につくから”といって、当初、首里城城内にあった琉大とは遠い城外に移設してしまう、というのは最初に詩碑を建立した人たちの意思に背いているのではないのか。そんな違和感がありました。
これでは虎瀬公園よりは城に近くなっただけではないか。人の目に触れる機会が多ければ良いのか?大切なことはもっと他にあるのではないか?そんな気持ちになったのです。
虎瀬公園でヨーリーと詩碑を見た時に、「宵夏の詩にある“王城の御門の通り”から随分と外れた場所に移されたもんだ」と呟いたら、貴女が「その代わり眺めがいい。惣之助が愛した辻の町が一望できる。これはこれで惣之助は喜んでいるんじゃないか」と言ったのを聞いてそれもそうだな、と感じたのですが、今回の移設には「人目につく」ということ以外にその場所に置かれている意味を何も感じることができなかったのです。

この背後からのアングルは現在の移設先では撮ることが出来ないだろう。背後から見る“ヒンプン”としての光景。モニュメントとしても大切なコンセプトが、人目のある場所に移設したことで失われたのである。

詩碑の横には那覇市の作ったプレートが置かれて惣之助の経歴が記され詩碑が建立された経緯と移設の経緯が記されていました。しかし、宵夏の詩についての解説があるわけでも、詩の全文が載せられているわけでもなく、ただ、詩碑の説明でしかありませんでした。

仏を作って魂入れずという言葉がありますが、まさにこういうことではないか、と思いました。展示場所が悪いから変えた、というような短絡さを感じました。
佐藤惣之助、濱田庄司、というブランドの入った美術作品を展示しているんだから、その意義と意味、そして川崎市と那覇市の友好都市を締結するきっかけとなったことも含めてしっかりとした文章で説明することも必要なのではないかと感じました。
伊波普猷のおもろ研究に端を発し、沖縄に興味を抱いた川崎市出身の詩人が、辻の遊郭で遊び、海に釣り糸を垂れて遊び、琉歌やおもろさうしに魅了されてそれを日本語詩と融合しようと試みた。
それは大城立裕など沖縄文学の先人たちが日本語の中に沖縄言葉や沖縄的な要素を織り込もうとした作業を逆の手順でやりとげた、恐ろしいまでに実験的な試みでした。
おもろさうしや琉歌を、日本語詩として翻訳する。それを外間守善は「旅行者という視点と佐藤惣之助という才能ある詩人だからこそなし得たことで、同じ発想の試みが現代に至るまで皆無なことからもその偉業がわかる」とまで評しています。佐藤惣之助を讃えるというのは、そういうことではないか。モニュメントを愛でるのではない。作品を愛でることではないか。

さて、空しい空しい読めば消えてしまうやうな五言絶句でも書いてもらおう

惣之助の「宵夏」の詩はこういう言葉で締めくくられている。まるで自分の詩碑がこう扱われることを予見していたかのように。
しかし、そんなこともまた、ヨーリーが佐藤惣之助を発見してくれたおかげで気付くことができたわけですし、本当にあなたの琉球スタディからは様々なことを学ばせていただき感謝しております。

場所は何度変わろうが、濱田庄司の遺した作品としての詩碑の素晴らしさと、佐藤惣之助の遺した詩の素晴らしさは色褪せることはない。大切なことは作品を愛でる心だ。

さて、本日はそんなヨーリーの誕生日であります。カナダでは五十歳をすぎると年齢が若返っていく、という文章を昨年書かれていたことを思い出しました。
ということは今年は四十二歳ということになりますね。弥生の季節は花が咲き、海もまた海藻の緑が美しい時期です。花粉の飛散が大変だと聞き及んでおりますが、お体に気をつけてご自愛ください。今年一年がヨーリーにとって素晴らしい一年になることらを心よりお祈り致しております。

武富一門  ryo_king

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