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便利と不便、そして可能性



最近、携帯でイラストなんかに手を出してみたらアプリの優秀さのおかげでそれなりに描けたりしちゃうことに驚いております。そこで調子こいてというか、やはり携帯の画面の小ささの限界というものを感じて、ついついiPadなんぞに手を出してしまったのであります。俺ごときの画力で。
で、デカい画面でお絵描き最高〜。とか言いながら相変わらずの俺のテイストな絵しか描けないわけですが、それなりに前より作業が進む。

さらには、前にKindleで買った漫画なんか読み返したらもう、あまりの読み易さに感動したりするわけですよ。画面デカいの最高!スワイプして読めるから老眼に優しい!とか素直に大喜びしてます。
この老眼による細かいルビが読めない問題、って漫画読みには致命的で、初めは少年少女コミックサイズのルビが読めなくなってきたのが、現在では青年コミックサイズのルビでも読めないわけです。

“首領”と書いて「ドン」とルビを振るくらいならまだ雰囲気で読めますけど、タイトルからしてルビが必要で特殊な読み方の台詞が頻出する「特攻の拓(ぶっこみのたく)」なんかはもう、読むのも大変なんですよ。
「不運と踊っちまったんだよ(ハードラックとダンスっちまった)」とか、「朧童幽霊(ロードスペクター)」とか、「悪魔の鉄槌(ルシファーズハンマー)」とか、老眼中年への配慮ゼロです。まぁ、不良少年マンガだからジジイへの配慮もクソも無いわけですけど。


そういう衰えた機能を補完する上でiPadで電子書籍を読むというのはなかなか合理的なわけで、老眼となってわかったのは“立ち読み”という行為は健康な視力と、店番のジジイの圧力に負けない根性と、そして立ち続ける脚力という、心技体を兼ね備えていなければ出来ない高度な技だったのでは無いでしょうか。
失われた肉体を補完するためのテクノロジーとしてのiPadの優秀さは認めざるを得ませんが、しかし、便利に絵を描けるということと楽をして絵を描く、というのはまた別のような気もするし、面倒臭い絵の描き方を知らずにスタートがテクノロジー全開、というのも良いのか悪いのか判別つけ難いものがあります。

かく言う俺は書道の墨を水で薄めて竹ペン自作して絵を描いてた時期の方が面倒ですけど面白い絵を描けていたと思います。しかし、今はパレットやら筆やら竹ペンやら用意して墨の濃淡をパレットで調整して絵を描き、ドライヤーで乾かしたりしながら色むらの調整したりというあの作業をやる気力がもう無いんですよね。

3年ほど前に急に絵を描きたくなり、竹ペンを自作してこういう絵を描いていた。面倒ではあったけど楽しかった。
三代目山口組の有名組長をひたすら描く、というイカれたことをして喜んでいた。もちろん、俺以外の誰も喜ばない。それが自由というものであり、俺が描きたかったものだった。


立ち読みをする体力がなければ、アナログで絵を描く気力もない。これぞ中年期の衰えであり、男の更年期なのでしょう。しかし、最先端のツールを使用することでなんとか、絵を描いたりこんな文章を書いたりすることが可能になってるわけであります。テクノロジーは人を救う。しかし、衰えた肉体や魂までは救済してくれない。


そういえば師匠が大友克洋全集のこと書いてましたけど、「AKIRA」の金田くんの「ヨタヨタのジャンキーに舐められてたまるかよ!俺たちは健康優良不良少年だぜ!」というセリフには健康を失った中年になってこそわかる矜持というか、心意気というものがあります。それは「魂までは売らない」ということです。
テクノロジーはアナログを駆逐してきました。鉄道や自動車は馬車を葬りました。しかし、アメリカには開拓精神は残り、カウボーイスピリッツはあるわけです。
中東の人間たちはアラブ馬への誇りをかけ、ドバイミレニアムという馬を何世代もかけ交配し育て凱旋門賞を獲得したわけです。

ボロは着ても心は錦。武士は食わねど高楊枝。テクノロジーが古き良き手法を駆逐したとしても、かつての時代を生きた魂まで失わないことこそが大切なのではないか。そんな高尚なことを抜かしながら、稚拙な絵を子供と描いたりしている昨今であります。

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