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月白にて 第六夜 「窮境を乗り切る人間の原理」(2020.5.31)

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註記

「月白にて」の翌々日に月白へ寄ると、ハマスホイとデンマーク絵画にまつわる展覧会の図録が届いていた。これがとても良く、じっくりと頁を繰って行くと、一通の手紙に目が留まった。

「ハマスホイは急いで語らなければならないような芸術家ではありません。彼は時間をかけてゆっくりと仕事をしています。その仕事をどの時点で捉えてみても、常にそれは芸術の重要で本質的な事柄についての話とならざるを得ないでしょう。」
——リルケから、アルフレズブラムスンへの書簡

手紙を書くことを日々の習慣に据えてから、手紙を読むことも自然と増えてきたなかでも、特に惹かれたのはリルケの『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』であったから、ここでもリルケの手紙に遭遇するとは思いがけなかった。またその内容が、「月白にて」で話した一連のこととも繋がっていたのだから尚更だった。つまり、自分らの陥っている窮境が深刻なものであるだけに、現実的に達成の可能な——つまりは穏当な——仕事をしたいということ。時間をかけることを厭わず、繰り返しを恐れず、その実現に力を尽くしたいということ。
以下はそのようなことを考えながら書き付けた草稿を元に、約二時間に渡って話した「月白にて」第六夜の音源(本稿末尾)と、それを聞き直すなかでさらに註釈と追記とを書き添えた二段仕込みの、口語と文語のとりあわせである。

〔註釈〕

(00:16:40〜)
「集中と注意」

ある編集者、とここでは名前を伏せているが、素敵な仕事をされている方なのでぜひ紹介したい。創元社で編集をされている内貴麻美さんという方で、本屋さんでよく見るものとしては『翻訳できない世界のことば』の編集、また身近なところでは、『つち式』の東千茅が『人類堆肥化計画』という本を目下執筆中なのだが、その編集も担当されている。この「集中と注意」という言葉は、『はじまりが見える世界の神話』という、これも内貴さんが編集に携わった絵本について、その絵を描いている阿部海太さんの寄せたエッセイを紹介する際に使われた言葉で、これと結びつけて、第六夜では現在の除菌神話について語った。また、この言葉によって、微花の仕事の見方も広がったように感じた。雑草という、ほとんど無意識による抽象的な視線から、名前を識ることによって具体的な草花を発見し、それらをひとつひとつ見つめてゆく、そして写真を撮るときには、なるべくその花の咲いている場所や環境まで含めて撮ること——除外しないこと。これを僕らは距離という言葉で語ってきたが、意識の在りようから見れば、それは「集中と注意」であったと気付く。そしてこの意識の在りようの身に染みついた癖が、除菌にまつわる違和感とそのまま結びついているのではないかとも。

(01:06:20〜)
「二冊の定義集」

長らく積読していた、大江健三郎の『定義集』を読みはじめたきっかけも、先に紹介した内貴さんだった。五月の初め、彼女から連絡を頂いた時、これまで僕が公の場で書いたり話したりしてきたことのなかに、言葉を定義して、そこからさらに思索を膨らませていくという癖のあることを指摘されたのだが——たとえば微花の復刊に際して、「絵本的」とは「複雑なことを引き受けてなお単純であること」とし、「月白にて」の第一夜においては、「健康」を「いい一日のこと」であると言語で定義づけしてみたように—— そのような「思索の果ての定義づけは、創造の根本であり、小手先でない表現をするために不可欠な作業」であると、僕のなかば無意識でやってきたことの意味を、そこで定義してくれたのだった。それと結び付けて、哲学者アランの『定義集』という本を紹介されたのだが、ちょうどその数日前、僕は友人のそうしさんとオンラインで会読を行い、大江健三郎の『新しい人よ目ざめよ』を課題図書として読んでいたところで、それがまさに、大江さん本人と思しき主人公が脳に障害を持って生まれた息子の為に、世界の何もかもについての定義集を書くことを企てるという筋書きだったのだ。いわゆる辞書のようではない小説という仕方で、物事の定義を浮かび上がらせるという物凄い小説と、もうひとつ、エッセイ集として書かれた彼の『定義集』を、これは今読まねばならないとそこで思った。その内容が、忽然と必要に迫られた教育に結び付くとまでは思いもしなかった。

(01:17:20〜)
「土の匂いと木々のざわめきと空の青を学び舎にとりもどし〜」
——ヘンリー・ソロー 『野生の学舎 』五頁

月白で発研の皆と聴講した森田真生さんのゼミでは、畑という環境を指して、賢い”場”があれば教育は成り立つのだと話されていた。それに対していわゆる教育では、賢い”人”が先生となって、子どもら生徒に様々なことを教えるというのが普通だが、それは囲われた——故に、時に貧しくもある——学びに過ぎない。そうではなく、

「すべての生命体を呼び込み〔…〕謎や異質なものの到来を歓迎すること。」(同書 五頁)

「その場所では、教えを受けとめないでいることはできない。なぜなら私という存在に向かって授業が行われているからである。」(同書 四十三頁)

これを読んで、僕は教育の原体験として語った四月の味噌仕込みでも、似たようなものを感じていたことを思い出す。その場に賢い人はひとりもいなかった。というのは、全員がはじめての味噌仕込みだったから。それでも久しぶりに感じたあの高揚は、ひとえに学びの高揚であったと思う。大豆に、米麹、麦麹、塩を混ぜて馴染んだら、たくさんの団子をつくって——そのように各々の常在菌や、そのとき宙に漂っていた数多の菌をも団子に込めて——壺に投げ入れる。まさにそこで、誰からということもなく、僕という存在に向かって授業が行われていたのではないか。つまりあのとき、月白は賢い場であったと。

(1:38:10〜)
「抽斗」

朝吹真理子さんのエッセイ集『抽斗のなかの海』という本をきっかけに、はじめて出合った抽斗という言葉のうつくしさに惹かれて、これを自分の本屋の名前にしようと思った。ここで本屋とは、次のようなものである。

『「書店」というのは、本という商品を扱い陳列してある「空間」。広いほどいいし立地も単純明快な方がよく、サービスの質をどんどん向上させていくものです。「本屋」はどちらかというと「人」で、本を媒介にした「人」とのコミュニケーションを求める。』
『BRUTUS』七〇九号 特集「本屋好き。」

言葉のニュアンスの違いからだけでなく、「店」と「屋」の辞書的な意味の違いからもこの使い分けは正しいと、『これからの本屋読本』において、著者の内沼さんは語っている。本を媒介にしたコミュニケーションである「月白にて」を原型とする「抽斗」は、いかにも本屋である。
また、辰巳芳子さんの『仕込みもの』の冒頭「一般に料理と称するものは、いわば具象の類に入ります。これに対し、生活の根を支える仕込みものは、抽象そのものです。なぜなら、それは、ものの本質と、ものごとの約束事に相対し、その抽出、そのものを仕事とするからです。これが仕事の内容なのです。」という一節に触発される仕方で、「抽斗」はまずもって、本や人の良いところを抽き出すことをその旨としようと想像していたときに、教育する(=英:educate)の語源が、ラテン語でeducere(=引き出す) という意味であることを知ったときには、自分で名づけた「抽斗」という名前に、こちらが抽き出されたような不思議な気持ちがした。ここには諸説あるようだが、それが本当なら、教育から自分の本屋へと至ったことは必然だったのだろう。

〔追記〕

「私は別種の学校において自分の教育を成し遂げたいのです。」
——ヘンリー・D・ソロー『原則なき生活』

教育から"自分の"本屋へと至ったそこから、あらためて「note」を眺めたとき、それは何より"自分の"教育であったと気付く。むしろそれこそが教育であり、だからこそ教育"義務"なのではないか。内貴さんが教えてくれたアランの『定義集』から、義務を引くと次のようである。

義務 (DEVOIR)
「これは困難な状況のなかで、精神に、普遍的価値をもつものとして現前する行動である。」

危機、窮境、困難な状況のなかで、精神に、普遍的価値をもつものとして現前してきたのが、まさに教育であったこと。それから本屋であったこと。つまり第六夜の一連の話は、自分なりの「教育(義務)」の定義と、それこそが「窮境を乗り切る人間の原理」ということであった。



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