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「震災遺構と語り部がつなぐもの」”ソロの細道”Vol.3「岩手」~47都道府県一人旅エッセイ~

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ ・・・

子供の頃に読んだ宮沢賢治の一節が、私の「岩手」へのイメージだった。

そして大学の文学部での卒業論文で井上ひさし「吉里吉里人」をテーマに選び、分厚い辞書のような厚さの単行本を数か月持ち歩いて何度も何度も読み返しているうちに、「吉里吉里国=岩手」というイメージも追加された。

初めて岩手を訪れたのは二十歳を前にした大学生時代で、今でも親交のある大学の先輩の実家にみんなで泊まりに行った。
一ノ関にある先輩の実家を拠点に、花巻の宮沢賢治童話村や登米市の石ノ森章太郎ふるさと記念館、中尊寺などを車で見て回って、「岩手は色んな著名人の生まれ故郷なのだな~」と、今思えばかなり雑な感想を抱いたものである。

そんな岩手のイメージを変えたのが、二年前に行った「被災地を巡る旅」でのことだった。

「震災遺構」を巡る旅


「震災遺構」とは、震災が原因で倒壊した建物を、次世代への記憶や教訓として保存しておくもののこと。
近年の日本においては、やはり10年前の東日本大震災での震災遺構が注目を集めている。

そして岩手県にも、そんな震災遺構が多数存在している。

2019年の夏、私が訪れたのは、陸前高田市から大船渡市に釜石市を通って、大槌町や宮古市までの三陸沖エリアだった。
空前絶後の津波によって多くの悲劇が生まれたエリアであり、その記憶を残そうと多くの震災遺構が残るエリアでもある。

そんな岩手県の震災以降の中でも、最も著名なのは「奇跡の一本松」だと感じる。

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奇跡の一本松は、陸前高田市の高田松原にある震災遺構。

「高田松原」は江戸時代から続く松原として約7万本の松の木が植えられた景勝地だったのだけれど、津波によってほぼ壊滅となり、そんな中で1本だけが津波に耐えて残ったのがこれだったのだ。

その光景は、松の背後で崩れ去った陸前高田ユースホステルの姿と相まって非常に興味深い光景となり、いつしか震災からの復興のシンボルのような役目を背負わされてしまった。

現在では、全国から集まった義援金で行われた保存プロジェクトにて、枯死してしまった元々の松を加工し、モニュメントとして立派にその価値(=津波の恐ろしさ)を発揮していて、私が訪れた当時はまだ工事中(それはそれで貴重な光景だった)だったけれど、今では「東日本大震災津波伝承館」として立派に整理され、その目玉となっているようだ。

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ちなみにこの陸前高田エリアにはもともとJR大船渡線が通っていたが、被災した後は”BRT”と呼ばれる高速バスに代替されている。

もともと線路があった場所が専用道路に転用し、その道を走るバス。
元々の鉄道からの眺めはどうだったのだろう、と思いを馳せてしまう。

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そんなBRTに揺られ、盛駅に到着。この駅からは三陸鉄道に乗り換えて、更に北上していく。

車窓からは穏やかな海岸線が見られるが、あの津波の映像を見ている身としては何とも落ち着かない気分になってしまう。

三陸鉄道は釜石駅に到着。そこから宮古方面へと乗り換える。三陸鉄道は宮古~釜石間の”北リアス線”と、釜石~盛間の”南リアス線”に分かれるのだ。その南北のリアス線が繋がったのが、ちょうど訪れた2019年の春からだった。


そんな”北リアス線”に揺られ、向かったのは大槌駅。卒業論文で対象にするほど敬愛する井上ひさし、その代表作の一つである「ひょっこりひょうたん島」をモチーフにした場所だ。

ここ大槌町には「蓬莱島」という小島があり、それが作中の”ひょうたん島”に似ている(一説にはモデルとなった島の一つ)ということで、町興しのキャラクターとして起用しているのだ。

駅に降り立つと、そんな登場人物たちが出迎えてくれる。

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大槌駅から蓬莱島までは、距離にして約4キロちょっと。バスなどは無く、車か歩きで行くしかない。

当初は駅からタクシーに乗ろうと簡単に考えていたが、駅の乗り場で待っていても一向にタクシーがやってくる気配が無いので、諦めて約1時間の道のりを歩くことにした。

考えてみればその選択が、その後の出会いを生んだのかもしれない。

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蓬莱島へは海岸線を歩くことになるわけで、嫌でも震災の爪痕を見ることになるのだけれど、海岸線には大きな防波堤が作られていて、また海岸線を走る道路が高く盛られて作られており、震災後に建てられたであろう住居はその道路を挟んで内陸側に位置していた。

おそらくこの道路自体も津波を防ぐための手段の一つであり、内陸側に建てられた家の住民たちは、残念ながら津波で家を流され、それでもこの町に住み続けることを選択し、新居をここに構えたのだろう。

そんなことを考えながら歩いていると、目的の蓬莱島が見えてきた。


蓬莱島は周囲200mの小さな島で、島の中には灯台と小さな弁財神社があるくらい。作中のひょうたん島のような大きさではないものの、確かにシルエットはそっくり。

そんな蓬莱島にももちろん震災の爪痕は残っていて、かつての灯台は倒壊し、今の灯台は再建されたもの。

また島と港は300mほどの道で繋がっているけれど、当時はそれが防波堤として使われていたものの、全て倒壊してしまったという。それほどに津波は凄まじかったということだろう。

このように大きな被害のあった大槌町にとって、復興のシンボルとして蓬莱島に灯台が再建され、今に至るということだ。

作品が人々に夢を与える、という意味では、ひょっこりひょうたん島ファンの身としても嬉しい限りだった。

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こうして目的であった蓬莱島を堪能し、帰路についたところで出会いがあった。何気なく通りがかった道路で声をかけられたのだ。

キャリーバッグをガラガラと引きずりながら歩いていた私を見て、「観光ですか?」と声をかけてきた女性との会話から、この地で住み続ける人たちのリアルを知った。


あの震災の時に、いくつかの特徴的な場所というのが繰り返しニュースで放送された。奇跡の一本松もその一つだが、それらの一つとして「旅館の上にフェリーが乗り上げた場所」を覚えていないだろうか。

ニュースで何度も見たその旅館の場所というのが、実はここ大槌町にあったのだ。

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女性との会話の中で、この地にその旅館跡があり、また復元保存会が発足してその場所を震災遺構として残すべく活動をしてきたことを知った。正に私に話しかけてきてくれた女性こそ、その保存会の中心人物だったのだ。

震災から数カ月で、旅館の上のフェリーは安全性の問題から撤去されたものの、そのフェリーを安全になるよう復元し、震災遺構にすべきだという活動が起こったのだ。

しかしながらそのためには莫大な予算がかかり、保存のための募金額も目標に届かなかったこともあって、行政側と復元保存会側が対立。いまだに決着は見えていないが、いまだに残っている民宿跡もいずれ解体されてしまうかもしれない。

「あの悲惨な津波の記憶をしっかりと後世に残す。その教材として、”はまゆり”は重要だと思うんです」

女性が語ってくれた思いは、果たしてどうなってしまうのだろうか。

残念ながら地元の人たちの中にも保存に反対の人は居て、「あの時のことを思い出したくない」「そんなことにお金を使うなら復興に充てるべき」という意見だという。

確かにそれも理解できる。実際に今や立派なシンボルとなった「奇跡の一本松」の事業においても、同じような反対意見はあったのだから。

それでも、こうして東京から被災地の今を知りたい、震災当時の記憶を目に焼き付けたいと旅をしてきた身にとっては、非常に大きな思い出となり、それを自分の話せる範囲で周りにもこうして伝えたいと思ったのも事実。

思いがけず「震災遺構」の是非を問われたこの旅は、色々な意味で今でも私の頭の中で小さくない思い出として残っている。

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(余談)

大槌町の隣の駅は、「吉里吉里駅」。そう、吉里吉里人と同じ「キリキリ」だ。井上ひさしのその作品と直接的な関係は無いと言われているものの、作品が大ブームとなった当時は、町興しとして活用されたという。

「ひょっこりひょうたん島」に「吉里吉里人」。二つの代表作に所縁のあるこの地は、井上ひさしファンにとっては聖地だと言えるかもしれない。

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