かなしい

「努力すれば何でも叶う」と思って素直に頑張れたピュアな自分に戻りたい。今の自分の環境では依然「努力すれば何でも叶う」を実現しやすいし、良い場所に居ると思う。

でも、社会は見えないセグメントによって分けられていて、自分が想像もつかないような共同体がきっといっぱいあると思う。富める人も貧しい人もみんな。

自分とまったく前提も生き方も価値観も違う人が、同じ日本にいるなんて想像しない人の方が多いのだろうか。自分にとっての当たり前を、相手も持っていると思っていることが多いのだろうか。だから残酷にも、人生で失敗したように見える人へ「努力が足りない」と言う人がいるのだろうか。

努力が足りないから結果が出ない場合が多いことは認識している。でも、努力云々ではどうにもならない壁というものもある。どうしてそれを分からないんだろう。努力していないことを正当化したいわけではない、でもどうして全ての人生の結果を自己責任論で片付けるのだろう。

努力できる前提を持つ裕福さを自覚できないなんて、すごく良い環境なんだね。こんなこと書いても僻みっぽくなることは重々承知の上である。努力するための前提として心の安全地帯を持つことは必須なんだよ。心の安全地帯を持っていれば努力して成功できた人はごまんといるよ。そこも含めて自己責任論と言うなら、なんて残酷なんだ。ひどいね。

競争社会、資本主義だから格差が生まれてしまうことは、仕方ないと思っている。自分自身が努力不足で結果が残せていないという指摘は受け入れることができる。でも、それを一般化して語るなんて、想像力がなさすぎる。悲しい。自分にとっての当たり前を持っていない人がいるなんて想像できないんだろう。

悲しい。

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