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生活に困らずとも、心は貧しくなりうる

自分の生まれ育った家はよくある郊外の核家族で、そこまでお金持ちでもないけど、電気が止まったり借金の取り立てが来たりすることは無い家庭だった。いま思い返すと「中流」だと思うが、中流すら実現するには大変な社会になってきたと思うので、恵まれて育ってきたと思う。

そんな中で、10代半ばくらいの頃に宮本輝の「道頓堀川」という本を読んだ。今となっては内容が全く思い出せないのだが、その本に記載されていた貧困や孤独の表現に何故か心が惹かれた。気になった文章を日記に書き写していた記憶がある。そこまでお金のことで貧しさを感じたことがなかったのに、なぜ自分は貧しい表現に心が惹かれたのだろう?

家にいた頃のことは、正直に言うとあまり覚えてない。ただ、実家を出たあとに、兄弟から冗談っぽく「お前、親からいじめられてたよな。よくずっと家にいれたね。覚えてないの?」と言われたので、あまり良い扱いは受けていなかったのだと思う。特に虐待を受けていたわけではないのだが、今でも親戚や実家が苦手なのは、埋もれた思い出があまり良くないものだからだろう。

そのせいか分からないけど、10代の終わりまで「自分が好きなことや、幸せなことをしても良い」ということを知らなかった。正確に言うと、概念は理解していたけど、感覚として「私は幸せになってはいけない」と思い込んでいた。だから、例えば「好きな洋服を買っても良いよ」と言われてもイオンで半額で売っている洋服しか欲しいと思えなかった(思ってはいけないと思ってた)。

自分の欲しいものを、欲しいから素直に手に入れても良いことを知った時、強く衝撃を受けた。そして「こういうことをもっと早く知っていれば、人生をもっと楽しめたのにな」と悲しみの感情に襲われた。

当時、お金に関しては管理する権限を持っていなかったけど、生活や考え方に余裕がなかった。まるで、お金がないがために、心の余裕がなくなって選択肢が狭まったかのような感じ。実家を出てから経済的にキツくなったときに、自分を幸せにしてはいけない息苦しさは、お金がないがゆえに発生する余裕のなさと心境がよく似ているなと思った。

だから、お金に困っていない頃から、貧しさや孤独を何となく感じて生きてきたのだと思う。そういったことを、小説家がとても繊細な言葉運びで、うまく表現していたのだと思う。だから日記に書き写してしまったのだろう。

自分を幸せにしても良い環境へ身を置くことの大切さや、自分の好きな場所で生きていくための自由を獲得するための自立の必要性、そして全ては「お金」が絶対に必要であり、経済的自立が現在の日本で生きていくうえで一番大切なのだと思うようになった。

余談だが、この時の影響なのか、疲れていたり無自覚でいると「自分が幸せと思う関係」に違和感を感じるようになって、段々と自己肯定感を無くしていくような人間関係の構築や恋愛をしてしまいがちである。自己肯定感が圧倒的に低く、本当は幸せになりたいのに、自分が自分を不幸にしていくという恐怖の行動指針がインストールされている。(本当はカウンセリングとか受けた方が良いのだろうなと思うけど、家族と距離を置いたことで心が安定してきたのでいったん保留)

だから自分の人生は、自己肯定感を高めて、大切な人を大切にしつつ、自分が幸せだと感じる状態のまま逃げ切ることが目標。幸せに向かって走る。



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