緑閃光vol.1 相互評4

こんばんは。連日の豪雨で被害が広範囲で出ておりますが、みなさまの地域は大過ありませんでしたでしょうか。被害にあわれました皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

さて、本日は岡本はなからの相互評の2回目をお届けします。ついに、来てしまった私(これを書いている桃生)宛の評。こわっ。自分でも書いておいてなんですが、評って丸裸にされる感じがあってドキドキしてしまいます。

御託はさておき、お楽しみいただけましたら幸いです。

桃生苑子「発熱の花」評/岡本はな

                    吾のなかの燃える炉が爆ぜ子を叩く叩けば焔さらに揺らめく

子育ての中で、子供に対して手をあげてしまうのっぴきならない状況をうたう。主体は母親であろうが、「炉が爆ぜる」ように感情が爆発し、叩くことでさらに興奮し止まらなくなる場面は筆者にも経験があり、わかる。主体の苦しみは人の親ならば共感できるであろう。今の世では「虐待」と疑われかねないが、作者は敢えて率直にうたっている。一連の中の「発熱のくれなゐ」「きれいな死体」「古傷」「毒」といった情念の濃さを思わせる語が、この一首を誘い出した。河野裕子の〈君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る〉にも通じる情念である。

にはたづみ月に照らされ落下せし躑躅しづかに闇に吸はれぬ

雨の後にできた水溜りに躑躅の花が散り落下してゆく。その刹那だけ、躑躅を月光が照らすのだ。だがその後は何事もなかったように闇に消えてゆく。不思議と音は感じられない。ここでふと疑問がわいたのだが、作者はこの実景を見たのだろうか? いや見なかったとしても差し支えないくらい、この歌の詩世界は閉じており、瞬間を連写した写真のような美しさを湛えている。

歌は定型を守り、「にはたづみ月に照らされ」「月に照らされ落下せし…」と、二句が上下両方の言葉に掛かるというテクニックが使われている。闇ら出て月に照らされ、また闇へ戻ってゆく人間の一生のようだと想像するのは穿ちすぎであろうか。一連には主体の、若さから成熟へとむかう情熱が定着されているが、この最後の一首はどこかはかなく、脚光をあびても閉じてゆくしかない命の喩のようにも思える。


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