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沈黙の交換

彼は新聞を取り続けていた。朝起きてすぐ読み、仕事帰りにも読んだ。ときには、仕事中だって読んでいた。だから、昔に比べて、軽めの記事が増えていることには気が付いていた。彼は読み飛ばした。わざわざ毎月安くはない購読料を払っているのは、バズワードの解説を読むためではなかった。友達が紛争地帯に赴任して書いている記事を読むためだった。彼は自分が戦争当時者にほんとうに同情できるのか、あるいはしてもよいものか判断がつかなかったものの、数少ない友達のひとりが思いがけず戦争を取材することになったことに対しては、少なくともきわめて強い関心を持っていた。そして、仮にその関心が同情をふくんでいたとしても、その同情は、友達がいままさに果たしている仕事を後押しこそすれ、おとしめるものではいささかもないはずだ、と彼は信じた。そして、友達が書いた記事に基づいて、自分の政治的態度を決定することに、後悔することはないだろう、とも思った。

友達はときどきメッセージをよこした。時差があるため、やりとりが深夜になることもあった。平凡な内容を好んで送ってくるのは、非凡な体験が日常になっているからだろうか、と彼は推測した。しかし、そうでなかったとしても、挨拶は平凡なもの以外になりようがなかった。まさに、平凡であることが挨拶の条件なのである。彼としても、平和ボケした呑気なことを言わずに済んだ。大丈夫ですかなどと訊こうものなら、やりとりする資格を永遠に失うような気がした。大丈夫なはずはないし、だが大丈夫でもあるからメッセージを送ってきているので、そんなやりとりをする意味はどこにもなかった。彼は年末に忘年会が続いていることを話した。忘年会、と友達は夢を見るような呟きを返した。彼は、友達のいる事態を具体的に想像するために、その国の状況に関するドキュメンタリー映画を観てきたばかりだった。だが、そのことは話さなかった。彼らは沈黙を交換していたのである。

文字数:811(テーマ:友)

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