『トイ・ストーリー4』感想(2019年7月19日 記)

『トイ・ストーリー4』感想(2019年7月19日 記)

『天空の城ラピュタ』に登場した老海賊ドーラが若かりし頃に暴れまわった大活劇をゴールディ・ホーンやスーザン・サランドンやジーナ・デイヴィスが演じたとする。「2」から「3」のあいだにいつの間にかウッディやバズや観客の前からいなくなって、今回「4」で再登場した羊飼い人形ボー・ピープが、それだった。完全に主役だ。むちゃくちゃにカッコいいBadasssss!

まるで海賊の頭目だった!  まるで「MMFR」のフュリオサ!  『エイリアン2』で海兵隊員たちを鼓舞するリプリー!  『緋牡丹博徒』のお竜だ!  もし『女海賊ビアンカ』(美内 すずえ『ガラスの仮面』より)をアニメ化するならばボー・ピープが主演するべきだ。

トイ・ストーリーは「オモチャの物語」と銘打ちながらも、正篇1〜3は実のところ「子供の物語」だったわけだが、今回はそのものズバリ、オモチャたちの物語――人生の選び方――が主軸だ。さらにこれまで主人公だったウッディは、「4」では(昔風の言い方をするならば)ヒロインとでも言うべき位置にいる。それもあってか正篇、続編というよりも『トイ・ストーリー・オブ・テラー!』や『謎の恐竜ワールド』などにも近しいスピンオフ作品の雰囲気がある。

ウッディたちの持ち主であるボニー(「3」のラストでアンディがオモチャたちを託す相手だ)が「幼稚園のおためし入園」をする導入部や、「捨てられるのが嫌で子供の元にいたい」オモチャたちと対比された新キャラクターで「元々ゴミから生まれたから居場所もいらないし捨てられて構わない」フォーキーなどなど物語を貫くテーマと成り得る要素はいくつかあるけれど、そちらを描くのがメインではなく、基本的にはシンプルな活劇だ。

「4」は、とてもとても面白く、掛け値なしに楽しめる映画だけれど、正直なところ「主題の無さ・希薄さ」がちょっとばかり気にかかりもした。観客がいる現実の生活と、前作までほどには深く関わる話ではないようにみえる。決定的な作品の穴というわけではないし、むしろそこがいいと感じる人もいるだろう。

移動遊園地の近くに停めたキャンピングカー(もちろん「どこにも縛られず留まらない快楽」と「家庭」のことだ)のトラブルでストレルフルになり「ウキーッ!!(怒)」となっている父親の描写はとても巧い。母親はそれをみて「お父さんが怒っちゃったからあっちいきましょうね〜〜」と子供とその場を離れるのだ。巧いだけに、けっこう辛辣である。 ボーの連れている羊たちの名前をウッディがまるで覚えちゃいないって描写もけっこうエゲつないが、ギャグにしてしまうオブラートの包み方が巧みだった。ウッディは役割としての自身の父性に疑いを持ってないが、それって本当に?とも読める場面だ。

夢見がちで自らの「内なる声」(願望)に忠実なバズは終始物語の蚊帳の外にいるし、ウッディの父性は空回り気味だ。反復する「迷子」などなど、読み解くヒントは散りばめられている。これまでのシリーズが描いてきた、子供の成長(を共にする)物語ではなく、「4」は子供が大きくなったあとの大人の話なのだ。

子供が生まれたり歳を重ねたりすると、自分が物語の主人公ではなく、バカボンのパパやムーミンパパやジョジョ第三部ジョセフや第四部の承太郎やZガンダムのアムロになった気分が──つまり自分は「前のおはなし」の登場人物なのだ、という感覚が生じたものだけど、もしかすると「4」は、その気分のさらに先を描きたかったのかなとも感じはした。ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』('19/新潮社)から言葉を借りると〈きっと息子の人生にわたしの出番がやってきたのではなく、わたしの人生に息子の出番がやってきたのだろう〉というところだ。

脚本のステファニー・フォルサムによれば(注1)、「4」のボーは「子供がいない」オモチャ(childless toy)だ。生来的な陶器の脆さ(これをフォルサムは、she has a lot of feminine vulnerabilityとする)がありながらも、サバイバル技術に長けたBadass。家庭という枠組みからも、女性としての役割からも、オモチャとしての使命からも、自由で強い存在。「4」で大奮闘するボーはとっても格好良いけれど、自分としては、この「強さ」って少し古いんじゃないのかなあ?などとも感じた。まるで、子供や家庭から自由でいられるからこそ得られた強さに見えてしまったのだ。

子供の世話が終わって何をしたらいいかわからなくなって人生迷子になった壮年男性(ウッディ)が、昔の恋人(ボー)の自由さに惹かれて、本当の自分を取り戻す旅に出る……って勝手に要約すると複雑な気持ちになる。 ボーの自由はちょっとばかりアナクロに思える。ウッディがまるでステロタイプなロマンス小説の主人公みたいだ。それなりに幸せな日常に突如としてワイルドな人物が現れてスリルと冒険の海へと漕ぎ出すのだ。無限の彼方へ! あえてそれをやった皮肉にも思えなかった。

共同脚本アンドリュー・スタントンは本作の脚本開発時に「他のオモチャは3でボニーとハッピーエンドだったけどウッディは全てを諦めなければいけなかった。ウッディの旅は終わるとは思えない」と考えたという(注2)。

でも私としては「3」ラストでの持ち主アンディが選択する行動への関心ほどには、ウッディやバズたちが「その後どうなるか?」には、あんまり興味がわかなかった。たとえるならば、いつかのび太の元を離れるドラえもんのその後にはまったく関心がないように。

前にここ(注3)に書いたのだけれど、子供の頃〈ドラえもんというキャラクターは自分の様々な欲望を叶えてくれる機械〉だった。でも、大人になった自分にとっては〈「我が子が悲しいときや困ったときや楽しいとき、自分の目が届かないそのとき、いついかなる場合にも寄り添ってくれる存在がいてくれたなら」という親の願いを叶えるキャラクター〉へと変わっていた。ウッディやバズは「1」の最初から「3」のラストまで、そういう存在だったのだ。

──とはいえ、バズがさいごにウッディに語りかけた、あの「言い直した」セリフは泣いてしまった。実際、終盤の「迷子」あたりからはずっとボロボロ涙が溢れていた。『トイ・ストーリー4』、他人の手放しの賞賛にも辛辣な批判にもまったく納得できないから、そこがいい。それはいい映画だ。

注1、2 


注3

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