岩明均『ヒストリエ』12巻

 岩明均『ヒストリエ』12巻。未読の楽しみを奪わぬよう、なるべく詳細は書かずに感想を書く。未読の方のためにコマやページの引用もしない。

 p217からの、遠方に見える集団の様子で余地なく戦闘を決意し駆る馬の速度を落さず実行→すれ違いざま馬上から状況把握→咄嗟にその場で馬から飛び降りる判断→地面に着地するまでのコンマ数秒で事態が絶望的なのを理解する──という一連の9ページ(見開き1コマ含む)は凄すぎる。いったいなんなのだ、あのスピード感と情報量が同居したアクションは。あんなの見たことがない。
 主人公エウメネスの人物像が前提としてあった上での描写だけれど、マンガ表現において、本来マンガ表現では得難い「時間」(時間経過ではなく秒単位での動作)のコントロールが、アート的でも実験的コマ割りでもなくスムースに歴史エンタメドラマの中でサラッと、いやカッ!バッ!ギュルッズザザザダッと表現されるの。
 年月単位での時間経過ではなく、秒単位での動作という「時間」表現において、ライブアクション/アニメなどの映像は、読者の読むスピードに依らずランニングタイムという実時間で表現できるのでマンガ表現よりも得意だけれど、該当箇所のコマ割りのスピード感と情報量の同居は……映像では無理なのではなかろうか。更に人物の表情の、目線の、口元の、コマごとの少しの編纂で、憤怒・諦観・絶望・巨大な感情を見せてしまうだなんて……あんなの岩明均さんにしか描けないよ……。だって、映像だとしたら、どんな音をあてりゃいいのよ、ノンモン以外に。誰が演じて(描いて)どんなカッティングすればあれほど巨大だが静かなるエモーションが生まれるのよ。

 しかし、ここにきて、まさか20年前に出版された第1巻の表紙が前フリと化すとは……。

(画像:岩明均『ヒストリエ』1巻,講談社,単行本版2004,kindle版2012)。

 史実(というか様々な伝承や記録から推定された〈定説〉か)では、12巻での展開翌年から十数年後までに渡る、派手な展開のある東方遠征やバビロン会議やディアドコイ戦争(中のエウメネスの死)とは違う着地点が、岩明先生の中で見えているのかもな、と感じた。なにしろこれは「エウメネス伝記」ではないのだ。

 別作品からここを引用しておこう。

〈岩明均 
「レイリ」は歴史ドラマである。
歴史ドラマは歴史再現ドキュメントではないので、作家により生み出された物語が多く含まれる。ならば、死にたがり少女・レイリの存在、すべてが創作なのかというと、実は違う。史実の中、彼女の立ち位置に、確かに「実在の1人」がいるのだ。ただし、物語の作者として私は「彼女」に、より大きな自由を与えた。よってヒロインは「実在の1人」に成り代わり、ずっと好き勝手に、自由に動き回る事になる。〉
(引用者による中略)
〈私は「キャラクターが描きたい」ではなく、「出来事が描きたい」という所から物語を書き始める。漫画作者としては少数派かな、とも思う。まず最初、歴史上のある「出来事」を描きたいと思った。そして次に、その「出来事」の近くに立っている人物を「主人公」に据えるのだ。〉
(引用者注:原作者本人によるあとがき)

(『レイリ』1巻,原作/岩明均,漫画/室井大資,秋田書店,2016)

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 12巻を読み終えたその夜から、岩明均『ヒストリエ』を1巻から読み返す。いちばん最初のセリフからして「ヘビ」だったかよ……と唖然とした。

 12巻刊行時『アフタヌーン』誌での〈引き続いての長期休載の事〉という作者からのメッセージ文によると、岩明均先生は眼底出血による視覚画像の歪みと利き腕の麻痺で〈万一執筆断念の事態が急に訪れる可能性を考え〉るほどの体調らしい……。12巻に収録された内容は『アフタヌーン』誌'22年10月号までの連載分だが、それ以降に単行本での加筆修正作業に入り連載は中断したまま連載誌には1ページも掲載されていないようだ。
 『ヒストリエ』12巻の中で、ある人物が「腕を奪われて、その奪われた腕でも、必死に、〈ある存在〉を守ろうとする」という描写がある。その人物は倒れたあとに「地面しか見えない」と言う。
 作品と作者は別だ。別だけれど……上記の部分は史実にはない『ヒストリエ』オリジナル描写なので、岩明先生の体調のことを知って胸が苦しくなった。頭がズキリとした。奪われた腕で必死に守ろうした〈ある存在〉が〈作品〉に思えてしまう。描写される〈剣で断ち切られた槍とそれを握る指〉p232、そして〈槍が地面に落ちるカランという音〉p242。槍がペン先とペン軸に見えてしまう。

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 ありていな、とても既視感のある、今となってはそれほど説得力にも欠け、独創性もなく退屈で、切実さも熱量も言霊も備わっておらず、レコメンドにはまったく言葉足らずだが、真に心の底から──「岩明均『ヒストリエ』をこれから初めて読み始めることができるひとが羨ましい」

だって、第1巻から12巻までまとめて読めるのだよ!? 人物名でWikipediaを参照して史実(というか様々な伝承や記録から推定された〈定説〉か)を脇に置いて読みながら、ぜーんぶ、一気に読めるのよ!?  とある人物が商人として変装した偽名が後のディアドコイ戦争にて友でありながらも敵対し主人公エウメネスを敗北させ死に至らしめる原因になった人物と同じ名前ってのがわかるのよ!? 恐竜を絶滅させた隕石並みのドデカ感情が心臓か脳に直撃し感覚がパンクして鼻血がでるんじゃないか。私が好きなコマ、セリフ、場面を列挙したいくらいだよ。

 本作は第1巻からもうずーっと面白すぎるので、このまま完結などしなくてよいのでずうっと続いて欲しいという気持ちと、主人公エウメネスにはしんどいことがありすぎてツラそうなので、もうこの歴史の大きな流れの奔流から舞台から降りさせてあげたいという気持ちが半々だ。作者が体調不良であるなら尚更のこと。まだはっきりとは明示されていない謎──というよりも前フリ──もあるし、当初の構想では描くはずだったエピソードもきっと山のようにあるのだろう。だけれど、岩明先生、今はご自身の健康のことだけを第一に、お大事になさってください。

 読者としての私は第2巻の段階で

〈「一生のあいだに読めるのは書物全体の中の ほんの一部なのかもしれない……」(p179)
「書物に……書いてある事なんて……世の中全体の中のほんの一部だ……」(p190)

(岩明均『ヒストリエ』2巻,講談社,単行本版2004,kindle版2012)

 と承知しておりますので。

〈了〉


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