見出し画像

太刀魚の味

 自転車で片道数十分のところに、月に一二度ほど行くキムチ屋がある。途中に最近お気に入りのアスレチック遊具が置かれた公園があるのと、店の近くにリサイクルショップがあり、子はそこで何かしらのおもちゃ(300円程度だ)を手に入れるのが楽しみなので「今日はあそこに行こう」と言えば、自転車後部座席への長時間拘束にも、さほど異論は挟まないのだ。

 その店では、最初にたしか白菜キムチを買った。こりゃいいなと、次に行ったときにはアミ海老の塩辛も買った。これもなんともいい味だった。店主とはお互いに名前を知っているわけでもないし、実のところ店の名前もうろ覚えだけれど、そのあたりに行くたび寄っていたので、なんとなく顔を覚えてもらったようだった。

画像1

 いま使っている電動アシスト自転車はバッテリー充電100%状態からであれば、スペック上の距離にして45〜50km・時間にして180分程度をモーターのアシスト付きで走行できる──ことになっているが、それは単に数字上の話で、交通量が多く歩道のない幹線道路や、歩行者が多い歓楽街界隈は迂回して走らなくてはいけないし、途中でトイレや休憩や、同乗者が突如として「もう降りる」と言い出したときの、サービスエリア(的なるポイント)を見積もっておかなければならないこともあって実際に移動できる距離は目的地によっては短くなる。駐輪しつつ休憩できる場所が少ない地域もあるし、昼飯前に出かけるのであれば、途中で弁当を買える店やそれを食べるところ、またはファミレスなど子連れで入れる店の見当もつけておかなくてはならない。

 私は大阪の西側に住んでいて、そこからコンパスで円を描いた走行半径1時間と少しが、電動アシスト自転車での行動範囲となる。大阪の西、兵庫の東、そこがわたしのいま暮らしているまちだ。

自家用車を持っているわけでもなく、山や海が気軽な近さでもなく、頻繁に旅行ができるわけでもなく、だからといって漫然としたまま保育園の始まる日の朝まで土日祝日が過ぎ去るのを待つばかりでは、ハッピーセットとYouTubeと徒歩圏内の公園との往復になってしまう。しかもここ最近の子は近所の児童館や公園の遊具にすっかり飽きてしまったのである。

だから、すっかりなまった足腰に鞭をうって自転車を漕ぐ。とはいえ、電動アシスト自転車本体35kg、私自身が65kg、荷物と子供を合わせて20〜25kgだとして、合計120kgオーバーの車体をモーターアシスト無しで走らせたくはない。行動範囲が思考を決める、バッテリー容量が暮らしの範囲を決める(知識を得て心を開き自転車に乗るわけだ)。後部座席の乗員はだいたい片道1時間強ほどまでの場所なら、iPhoneでゲームをしてるか、ダウンロードしておいた番組を観ているか、好きな音楽を流して歌うか、通り過ぎてゆく看板の文字をひたすら音読しているか、寝ているかで、おとなしくしてくれていることが多い。ベビーカーや手繋ぎで電車移動の往復2時間以上で、私の中で澱のように溜まってゆくジリジリとした焦燥感に比べると、いくら足腰に疲労が溜まろうが自転車移動は天国のようなものだ。

いま住むこのまちに私自身の縁やルーツがあるわけでなく、近所に子供の頃から顔馴染みでLINEグループで繋がっているママパパ世代の友人がいるというわけでもないので、知らない場所、知らないまち、知らない人、初めて見る景色、親以外の大人たちとの会話を手に入れてやらなくてはいけない。なんとか機会をつくってやらなくてはならんのだ。

私より5年ほど先に子育てを開始した、遠くに住んでいる友人が以前にこう言っていた。「子育てはいつまでも終わらないルーチンワークに思える時期があって、そこがいちばんキツいんですよ」。電動アシスト自転車での遠出と、途中で出逢うことのできる見知らぬ風景を写真に撮ること、それらがないままだったら私の中の何かが荒んでしまっていたかもしれない。だから毎週末のように何処かへ走る。


画像2

 ある日、件のキムチ屋に行き、今回は調味料でも手に入れてみようかと、キムチ棚の横にいくつか並んだ容器を指して、「おじさん、これなんですの?」と訊いた。「これはね、ヤンニョンジャン」。私は韓国の調味料に明るくなく、コチュジャンくらいしか馴染みがなかった。

「ヤンニョンジャン……どうやってつかいますの」
「チヂミにつけてもええし、何にでもつかえるで。焼肉のタレに混ぜるのもいい。でも魚を水から煮るときに入れておくのがオススメやな。白身魚。太刀魚がええな」

 さっそく買って帰った。しかしそのときは太刀魚の良さげなのが──つまり、ほどよく安いのが、という意味だが──近所の魚屋にもスーパーにもなくて、冷凍庫にあった、からすがれいで試した。白だしとヤンニョンジャンを水から入れて煮る。量の見当がつかないけれどそこは適当だ。途中でネギと白菜を入れる。うん、うめえや。

画像3

画像4


 それからしばらくして何度目かにその店を訪れた際に、ちょうど他の客がいないタイミングだったので「前に教えてもらったヤンニョンジャンで魚を水から煮るのうまかったすよ、でもまだ太刀魚はためしてなくって」と店主に話しかけた。

「ぜひためしてみてや。ニンニクは好みでいれてな、大根もいっしょに入れると大根がえらくうまくなるで、ブリ大根みたいな感じでな」
「やってみますわ〜」
「おっちゃんの子供のころな、むかしは大きな(両手を拡げる)太刀魚が今でいう200円くらい。それをおつかいで3本も4本も買ってバッグに入れて朝鮮部落に帰るんや。それで煮つけるんやけど、これが太刀魚は最初にお爺さんがぜんぶ食べてしまう」
「えーそういうのまだまだ、あったんですね」
「ハハハッ、儒教のなんかそういうのがね、あの頃はまだそういうのあったからね、食べるのには順番があった。子供の自分たちはお爺さんが食べ終えるのを待ってから、残った大根を食べる。でもその大根がうまくてなぁ、いくらでも食べれたわ」

私は、おっちゃんが自身の子供時代の話を聞かせてくれたのが嬉しくて嬉しくて、なんと言葉を返したらいいのかわからなくなるほど、短い会話に頭の芯が痺れてしまって、そのあとは「ほお、ブリ大根、そういえばいま大根うまいですね」などとぼんやりとした言葉しかでなかった。朝鮮部落という普段は使わない言葉があまりにも自然に出てきたので、 まごついてしまったのもある。

帰り道に近所の商店街で魚屋に寄る。そのときも太刀魚はあまり安くはなかったのだけれど、今日それを試さなくてどうするんだという気持ちになっていた。きっとネットで「韓国料理 太刀魚 ヤンニョンジャン」と検索すれば、料理名もレシピも出てくるのだろう。でも検索して答えあわせをする気にはなれなくて、おっちゃんから教えてもらった通りに、太刀魚をヤンニョンジャンと水から煮た。大根だけは、先に下茹でをしておいて鍋の底に敷いた。

画像5

画像6

画像7

画像8

画像17

まず太刀魚だけを先に食べた(太刀魚は小さく切り過ぎで身が少し崩れてしまった、ここは私の凡ミスである)──それから、ひと呼吸おいてから、大根を食べ始めた。

それは、とてもシンプルな味だった。きっと、何か香辛料を足したり他の野菜を加えたりすれば、もっと、自分好みにすることもできたはずだ。でも、私にはそのシンプルさが心に響いた。

おしえてもらったとおりにつくってよかった、レシピを検索してからつくったら、「この大根の味」を知らないままだったろう、と思えた。大きな太刀魚を何本もバッグからはみ出させて味が染みた大根の味を考えながら帰途につく子供時代のおっちゃんの気持ちを想い浮かべた。

 ヤンニョンジャンはそのあともいろいろ試してみた。焼肉のタレと混ぜてホルモンを炒めるのも豚足に添えるのもうまかったし、冷凍のシシャモを水から茹でるのもよかった。

画像9

画像10

画像11

画像12

画像13


────この文章を書いている途中で、キムチが食べたくなった。ちょうど冷蔵庫に切らしている。子を保育園へ迎えにいった帰りに寄れる範囲で、以前に見かけて入っていなかったキムチ屋があったはずだ。小さな店構えで、なんとなく常連さん向けというか、敷居が高い印象があったのだ。店の前で「ちょっとキムチ買うから待っててな、キムチというのは漬物やで。酸っぱい漬物と塩っぱい漬物はあるやろ、辛い漬物もあるんや」と自転車を止めたわけを子に説明しながら、カクテキを買う。店のおばちゃんが「ちょっと漬かり過ぎた白菜キムチがあるんやけど、お兄さん嫌いじゃなかったらもってく?」とオマケしてくれた。予感があった、それはきっとうまいヤツだろう。

画像15

 いつか子供が大きくなってから「晩飯があれの日は朝から楽しみだった」と想い浮かべる飯時の姿が、私にはつくれるだろうか。

私自身のそういう飯の姿で真っ先に想いかえすのは、薄切りにしたラム肉のしゃぶしゃぶだ。ベル食品「成吉思汗たれ」と酢とを2:1か1:1であわせて、肉のつけダレにするのが私の生まれ育った家のお決まりだった。母によれば、私の小さな頃は飯茶碗に盛られた白飯が多かろうと少なかろうと食べるのは一杯だけ。米を残しはしないけれどおかわりはいっさいしなかった(なにか妙な拘りがあったらしい)という。しかしラム肉のしゃぶしゃぶのときは何度もおかわりをして、いくらでも白飯を食べたのだそうだ。

私が十代後半、そして二十代になってからも、母は幾度となくその話をした。聞かされるたびに「(もう何回めだよ……そんなに印象に残ってるものなのかねえ)」と感じたものだが、それがどれほど母にとって嬉しい光景だったのか、いまはようやく知りつつある。

画像16

画像17

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?