「いじめなんかよくないよ」

以前にあった出来事。子と公園で遊んでいたら横の道を小学生五人ほどが通り過ぎようとしているのが目に入った。そのうちのひとりは眼下底骨折した格闘家ほどに顔の半分を腫らして泣きながら靴は片方脱げたまま靴下で歩いている。片目の上が青黒く拳大に腫れあがっている。

ギョッとし駆け寄って「なんや!?それどうしたん」と聞くと「落ちた」「滑り台の上から」と少年たちが口々に言う。たしかに小学生同士の喧嘩でできるような怪我ではない。怪我した少年の母親がこの近くで働いているのでそこまで連れて行くのだという。肩をかしている子もいる。素人目にもすぐに病院へ連れて行かねばならぬほどには腫れている。少し脚を引きずっているのか顔の痛さで脚が覚束ないのか、肩のかしかたもテレビかマンガの見様見真似で、少年たちの歩みは遅い。

このまま歩いてくよりは速いやろと、泣いている少年を私の自転車のサドルに座らせて母親の職場まで一緒に行く。その頃はまだうちの子が小さくて自転車に乗せたままその場を離れるのが不安だったので、二階にあるという職場ビルの下に自転車を停めて、少年のひとりに「ええか、きみはここにおって、この自転車倒れんようにちょっと抑えててもらえるか、おっちゃんは上にいくからな、頼むで」と伝え、顔を腫らした子の手を引いて階段を昇り、母親を呼んでもらう。なんやかんや事情説明をして、母親は病院へ行くのに職場を抜けられるとの報を聞いて安心してあとは任せることにした。

で、それから一緒に歩いてここまで来ていた少年たちに「きみら、よくがんばったなあ、あとはお母さんにまかせといたらええわ」と私は言う。「靴ぬげてたけど、落ちたのどこの公園なん」と私は訊く。公園の名前を聞いたが知らない公園だった。「じゃあ靴が落ちたままかも知らんから、あとで誰か探しに行ってやり」と私は言う。少年のひとりがうなずく。そのあとで、そこにいる少年たちの顔をみながら「これは訊いとくけど、疑うわけちゃうけどな、いじめて落としたとか、無理矢理ここから飛べとか言うたんちゃうやろな?」と私は言う。「いや、違います」とひとりが答える。「違うならええけどな、ほんまに違うならええよ。でも、もし、いじめやったら、しばくぞ。ほんまにしばくからな、いじめてるとこ見かけたらおっちゃんは、しばくからな」と私は言う。内心「(ほんまに小学生しばいたらあたりまえやけどパクられるのはおれやし、できるわけないやんけ、ほんでこの子らもただの脅しやろとどっかでわかってるやろな)」とは思いながら、でも真剣な顔と口調で私は言う。

これは少数派の意見かもしれない。ヒトは放っておくと差別する相手を見つけると思うし、ヒトは放っておくといじめる対象を見つけて誰かをいじめると思うし、ヒトは放っておくと集団になって少数派を弾くと思う。年少者がそれをやり出したとき、そのことに関してどうにか対処できるのは保護者や年長者、周囲の大人なのではなかろうか。「いじめなんかよくないよ」と周囲を止められる少年をマンガやアニメ以外の現実世界で目にしたことはない、私は。私自身も止められないどころか加担したことのあるひとりだ。

以下は2021年7月17日時点での余談だ。

大事MANブラザーズバンド「それが大事」のヒットは1991年。日本のインターネットの人口普及率が10%を超えるのは97〜98年。2020年代の現在でこそネット上にいくらでも転がっている下衆な話・鬼畜な話・外道な話などなどは、90年代前半〜半ばの頃は今ほどには簡単にアクセスできなかった。アンダーグラウンドな刊行物や自販機本などはそれ以前にもあったが、一時期の悪趣味・鬼畜ブームというのは、インターネットでその手の話がいくらでも転がっている前の時代ということは念頭に置いたほうがいいとは思う。悪名高き「2ちゃんねる」開設は99年だ。その後にはテキストサイトの勃興と隆盛(2000年〜05年くらいだろうか?)と「嫌韓」「嫌中」が重なった嫌な時期というのもあった。90年代の『ユリイカ』誌「悪趣味大全」も「屍体写真集 」も『完全自殺マニュアル』も『危ない1号』も本屋で金を払って入手する情報だった。いまはそれらに載っていたくらいの露悪的な情報や挑発的なスタンスにはネットで無料でアクセスができるだろう。どちらの時代が良いか悪いかということではない。『ロッキング・オン・ジャパン』誌のような広告出稿・タイアップ記事中心の雑誌でも、90年代には編集後記で「美容院でお気に入りの死体写真集を読みながら」(注:正確な引用ではありません)といった文章があって、今にして思えばメディアの一部ではエッジなものとされていた悪趣味・鬼畜ブームへの目配せではあったのではなかろうか。

これは、すべて、ただの昔話だ。批評や評論でもないなら、いまの若いひとが生きる上で文脈を抑える必要などないだろう。いま私が十代なら、毀誉褒貶あるユーチューバーや生々しいラップミュージックのインスタライブ以外は「リアルじゃない」と拒絶している可能性はある。私が若い頃にロックスターや詩人や作家などアーチストのアンファン・テリブルな振る舞いや発言に閉塞感からの打破を託したり爽快感を抱いていたのと、いまの若いひとや児童たちがユーチューバーに親しみを持ち傾倒するのは、似ているところもあるのだろうかと感じることはある。

まったく主観的な個人史としては、悪趣味・鬼畜ブームのときは「これがヒトの本質なら、おれは自分がヒトであるのがつくづく嫌になった」とは感じていた、しかし、いま現在進行形でSNSをみて似たようなことを感じている子らもいるのではないかと想像をする。カマトトぶりたいわけではない。メディア上の悪趣味・鬼畜ブームのさなか、私個人の私生活としてはいまの倫理観やモラルに照らしてみるとありえないような言動や行動を山ほどやっていたのだ。叩けば埃が出るどころか、私は埃が集まってできているような人物なのだ。

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